1994年 難民の爆発的増加

民衆の苦しみはついに大量難民の発生というかたちで爆発します。難民はすでに93年から急速な増加を見せていました。米国沿岸警備隊の発表によれば、船でフロリダに到着したキューバ人亡命者は3,656人に達し,92年度の1.5倍となっていました。しかしその数は94年に入ってから異常な増加を見せ始めます。

話が変わりますが、ハバナも冬は結構寒いのです。寒いといっても昼は半袖なのですが、冷房を入れるほどではありません。夜になると戸外ではちょっと上着が欲しくなるくらいに涼しくなります。ハバナっ子は「フーリオ!」と叫んで毛皮を着込んだり、革ジャンの襟を立てたりします。

アメリカの平原からメキシコ湾をわたって来る北風で海はしけています。ハバナの沖合いもさんご礁がありますが、白波はそれを乗り越えて、マレコン通りの堤防にぶつかり、二階建てほどの豪勢な波しぶきとなって道路に振りまかれます。

そんな海が穏やかになるのは4月頃からです。昔は、この日和を待ち構えたスペイン艦隊が、インカやメキシコの財宝を積んでスペインへと帰っていたものでした。それがいまや難民の船出のときとなったのです。

6月末までにすでに5千人がボートに乗って脱出しました。一種のパニック状態が出現しました。年表を見るだけでも、その勢いのすさまじさが良く分かります。

7月13日にはハバナ港からタグボートが盗まれました.警備艇が出動し、フロリダへの脱出を阻止しようとしましたが、タグボートは警備艇と衝突、港の沖7マイルで沈没してしまいました。この事故で40人以上が溺死したといわれます.

8月4日には、ハバナ港内を横切る通勤フェリーが乗っ取られました。桟橋には「自由」を叫ぶ群集千人が集まり、投石や窓ガラスの破壊などで35名が負傷,300人が逮捕されました.この際防衛にあたった警官一人が死亡しています.

8月8日には、マリエル港で海軍艦艇が奪われ、当直将校が殺されました。船は24人を載せて米国に逃亡しましたが、逃亡犯はマイアミで英雄として歓迎されました.

14日には停泊中のタンカーに,5百人が乱入し亡命を求めました.このときはカストロがマリエルまでおもむき参加者を説得,翌日には全員が自主的に下船しました.

米沿岸警備隊は15日だけで272人のキューバ人漂流者を保護。さらに16日には339人,17日には537人、そしてピークとなった23日には2548人に達しました.まさにラッシュです。押し寄せる難民に対し,米海岸警備隊はついに「ピケ」を張り阻止するようになりました.

たいていの人は、もう少し平和的な手段を選びます。マレコン通りにタイヤのゴムチューブを抱えた若者たちがたむろしています。彼らは別に海水浴をするためにそこに集まっているのではなく、潮の流れの情報を聞いて、いつかは向こう岸まで行くぞと心の準備をしているのです。フロリダ半島の先端までは100キロあまり、先日は泳いでわたった人もいるくらいです。ただし人食いざめにはご注意、「老人と海」に出てくるようなすごいのがいるそうです。

このように難民が大爆発したのには、米国側の事情もあります。米政権はキューバ敵視政策の裏返しとして逃れてくるキューバ人を無条件に受け入れる姿勢をとり続けて来ました。それも正規の出国ルートをとる人に対しては厳しい制限を設け、非合法に出国してくる人は英雄として迎え入れ、ほぼ自動的に市民権を与えるという、法的にはまことに奇妙な態度をとってきたのです。

米国の傲慢な対応に、カストロはついに頭に来ました。8月24日、カストロは「ボート・ピープルを引き留めるつもりはない」と発言.難民の出国を黙認する態度を明らかにします.そして関係部署に対し、実力行使を控えること、必要とあれば援助を与えるよう指示します。

さあ困ったのはクリントンのほうです。結局、米国側が折れることで決着がつきました。両政府間の協議で、米国が年間2万人へのビザ発給を履行すること、キューバ政府が,合法的手段を執らずに個人的方法で米国に渡航することを禁止することで合意しました.

そもそも「つぶしてやる」といきまいて来た相手であるキューバ政府と交渉すること自体が、米国にしてみれば屈辱です。さらに交渉成立に当たっては文章には表現していなくとも、何らかの見返りが必要だったはずです。しかもその裏約束は、もしそれを破ればいつでもキューバが「難民送り出し」を再開できる状況の下では、恒久的なものとならざるを得ないわけです。

カストロもこの数年の憂さが多少なりとも晴れたと思います。

「開放」経済の進展

三つの解禁と公共料金の値上げ策は、94年の1年をかけて着実に実現していきました。生活の厳しさに耐えるだけでなく、貧富の差や社会の不公平にも耐えよというのです。いわば、3年間で国民の負った傷にさらに塩をすり込むような仕打ちをするのですから、痛くないわけがありません。

行政の徹底的なスリム化が実施されました。政府機関は50から32に削減されました.省庁の勤務員は1万2千から5千に,部局数も1000から600に削減されました.率先垂範、「まず隗より始めよ」です。止めさせられたほうにすれば辛い話ですが。

半年かけて積み上げられた「労働者国会」の討論にもとづいて、酒・タバコの十倍化,電話・電力など公共料金の引き上げ,ガソリンは4倍に値上げ。新税の創設,福利厚生補助金の削減などの財政改革案が承認されました.学校給食は有料化され、労働者への給食補助も打ち切られました.野球や音楽会などの入場券も有料化されました。(それまでは無料だった!)

この「労働者国会」には全国の職場で300万人以上が参加したといわれます。この国の人口が1千万人であることを考えると、ほとんどの国民が議論に参加したと考えてよいでしょう。それは「民主主義とは何か」、という問いに対するキューバの答えだったのかもしれません。

しかしいくら民主的に討議したといっても、煮え湯を飲まされることに違いはありません。むしろ真の事情と今後の見通しをを頭に叩き込まれる中で、絶望感が拡大したかもしれません。公共料金が値上げされるいっぽうで、闇ドルレートは1ドル=120ペソにまで高騰します.

いっぽうで、一人一人の問題として、「このままではいられない、お上任せではこのさき生きていけない」という、焦りにも似た感情が沸き起こってきます。このあとイカダ難民が激増したのもうなずけます.しかし大半の人は、国内で自らが食べて生き抜くための方途を真剣に模索するようになりました。そういう意味では、94年はネガティブな意味も含めて「国民の意識変革」の年だったとも言えるでしょう。

家の中の暗闇にじっと息を潜めて暮らしてきた人々が、腰を上げるようになりました。国会で個人営業の解禁が保留になったにもかかわらず、94年の二月には早くも14万人以上が開業したと報告されています。その十倍くらいはやみ商売を始めたことでしょう。

これに伴い,退蔵されていたペソが一気に市場に出回るようになります。これは激しいインフレとなって給与生活者や年金生活者を襲いますが、起業精神に富んだものにとってはまたとない僥倖です。

三つ目の解禁、農産物の販売自由化は、一番遅れました。ただでさえ不足している食料を自由市場に回してしまえば、ますます食料が不足してしまうという恐れが捨て切れなかったのです。しかし、緊迫した事情はそのような躊躇を許しては置けませんでした。

1994年9月、まずフィデルではなくラウル・カストロが口火を切ります。共産党機関誌『グランマ』は,ラウル・カストロの発言として「農民が作物の一部を自由市場で販売することを近く認める。国家への引き渡しノルマを達成したあとの余剰生産物は(必須食料を除く),新設の農業市場で政府の価格介入なしに自由に販売できることになる」と報道します.

ラウルは最後にこう付け加えます.「今日わが国の政治的,軍事的,思想的問題は,食糧を探すことである.農産物市場の開設は国民の一致した支持を受けており,カストロ議長も支援している」

こうやって観測気球を上げたあと、今度はあまり強硬な反対がないのを見計らいました。そして10月1日に政令191号が公布されます。この政令は、全国130の農・畜産物販売自由市場を開設するというものでした。国会に配慮し、自由市場の指導には議会の行政審議会商業管理部があたることとなります。

これと同時に、政府は国営農場への補助を削減.96年までに利益を出さなければ農場を閉鎖すると宣言します.

同じ10月の末には、政令第192号が発表され、工業製品や手工品についても自由市場を開設すると発表されました.