1990年 激動、その第一波

89年の末、「ベルリンの壁崩壊」が起こります。そして東欧最後の「社会主義国」ルーマニアではチャウシェスク議長夫妻が民衆の手で「処刑」され、激動を締めくくります。

得たりとばかりにブッシュはパナマに侵攻し、「ノリエガが隠れている」との口実でキューバ大使館やニカラグア大使館まで襲撃します。マイアミの亡命キューバ人は,車に「来年はハバナで」とのステッカーを貼り武力侵攻をあおりました.準軍事組織は半ば公然とフロリダ湿原での軍事訓練を再開します.

バチスタ独裁政権が崩壊した日から31年経った90年1月1日、カストロは次のように演説しました。「社会主義陣営の存在はキューバの達成した成果の土台であった.その崩壊により,経済面,特に物資調達の面で深刻な事態に直面している.今年の見通しでさえ定かでなく,ましてや来年からの見通しを立てることは困難な状況にある」

その一ヵ月後には、その「見通し」について「我々は”平和時における非常時体制”の計画を作成しなければならなくなった.最悪の事態を予測して,その対策を立てなければならない」と、さらに踏み込んだ発言をしています。この”平和時における非常時体制”(el Periodo especial en Tiempo de Paz)という言葉が、その後の経済・社会政策のキーワードとなって行きます。

ハーマン号事件

カストロの容易ならぬ決意を世界に示したのが、1月末のハーマン号事件でした。このときハーマン号は、メキシコ湾の公海を、パナマ国旗を掲げクローム鉱を積んでタンピコに向かっていました.

ハーマン号はパナマ船籍の貨物船で,キューバがチャーターしたものです。乗組員のほとんどはキューバ人で、キューバ西部の鉱山で採掘されたクローム鉱石を、海外に輸出する目的に使用されていました。

いっぽう、米国の沿岸警備隊のシンコティーグ号は、このときメキシコ湾で麻薬密輸船の取り締まりにあたっていました。シンコティーグ号は、航行中の貨物船ハーマン号を疑いがあるとして追尾しつつ、沿岸警備隊本部に指示をもとめました.沿岸警備隊はパナマ政府の乗船許可を受けたうえ,ハーマン号に停船を命じました。これを聞いたカストロは、ハーマン号に対し査察受入れを断固拒否するよう指令します.

沿岸警備隊はハーマン号に放水を浴びせ,さらに銃撃・砲撃を加える.ハーマン号は重大な損害を受けつつも,命令を拒否しメキシコへの航海を続行.ついにメキシコ領海内に到達します。これを見た沿岸警備隊は追尾を断念しました.

タンピコ入港後メキシコ官憲が臨検をおこないましたが、当然ながら麻薬などは発見されませんでした。2日後、ハバナに戻った乗組員たちは市民の熱狂的な歓迎を受けました。

経済非常事態の宣言

 8月29日、政府は、「キューバは疑いなく“平和時の特別期間”に入った」と宣言し、第一次緊縮政策を発表しました.この時点では石油輸入の減少への対応とエネルギー節減政策が柱となっています。

ソ連からの輸入量は2年前の80億ドルから40億に半減しました。原油も54%に減少しましたが、それ以外の部品等が激減したことが大きな痛手となりました。

政策の柱は、個人用ガソリンの3割削減,モアのニッケル工場の閉鎖,生産性の悪い工場や学校の閉鎖、家庭電力の1割自主削減などからなっていました

カストロが演説し、「社会主義の国々との通商は事実上消滅した.現実を直視しよう.いますべてがバラ色とは決していえない.しかしソ連が分裂し崩壊しても,われわれは社会主義を守りぬく」と述べ、国民に対し忍耐をよびかけます。

「すべてがバラ色とはいえない」とはずいぶん強気です。この年、キューバは60億ドル相当の経済援助,10億ドルの軍事援助,1千万トンの原油,60億ドル相当の商品を失いました.前途は真っ暗、というのが本音でしょう。

石油の制限は序の口でした。9月に入ると「チョウ」のつく厳しい方針が次々に打ち出されます。食料品のほとんど,その他の生活用品のすべてが配給制となりました.一人一日あたりパン一切れ,卵は週3個,魚か鳥の肉が月に一度,食用油は一人年1ビン,ミルクは8才以下の児童にのみ配給されることとなりました.

全国紙,地方紙は「グランマ」を除きすべて日刊からはずされました.雑誌も「ボエミア」以外はすべて休刊となりました。「ボエミア」もページ数が2/3に減少します.

国会は米作地の拡大,養豚場・養鶏場の建設,淡水魚漁獲の拡大などの緊急食糧増産計画を決定しました.しかし資材不足のため,計画はほとんど実施されずに終わってしまいます.

国民には自家菜園の奨励,ロウソクや石鹸の製造法などが指導されました。自動車に代わる交通手段として馬車が復活。また中国からは100万台の自転車が輸入されました。要するに日本の戦争末期の状態です。

この頃の中国はまことにビジネスライクでした。ブッシュが圧力をかけると、たちまち対キューバ援助を大幅に削減しました.ブッシュはこれを受け,議会に中国を「最恵国待遇」とするよう提案しています.73年にチリでクーデターが起こると、真っ先にピノチェト政権を承認し、人民連合政府の派遣した大使を国外追放したことも忘れられません。

ソ連の崩壊と未曾有の危機

しかしこれはほんの手始めにしか過ぎませんでした。ソ連も厳しい経済の中から、かなりの誠意を持って貿易の維持にあたっていました。

1990年末に締結された年次貿易協定では、ドル決済が導入され,砂糖価格も1トン800ドルから500ドルに切り下げられました。しかし国際価格は200ドル前後でしたから、なおかつ破格な価格でした.ソ連はこのほかにも約50億ドルの通商と、1千万トンの石油供給,10億ドルの経済援助の維持を約束したのです.

ほっとしたカストロは、このとき、「すべてのキューバ国民は生活の悪化に対する覚悟が出来ている.しかしさほど急激ではなく,深刻なものでもないだろう」と述べています。しかしその見通しはまったく甘いものでした。

91年5月、カストロはソ連からの原材料供給が激減したと発表しました.ソ連からの商品輸入は当初目標の1/4に過ぎず,豆の5割,ラードの7%,植物油の16%,コンデンス・ミルクの11%,バターの47%,缶詰肉の18%,粉末ミルクの22%,魚肉の11%しか入ってきていないことが明らかにされました。

それにしてもこれらのリストを見ると、キューバがいかにソ連に頼りきっていたかが分かります。

原油供給だけはかろうじて続けられましたが、89年の1300万トンから91年300万トンに激減してしまいます.そしてその原油も、12月に入ると完全にストップしてしまいました。昨年末の貿易協定は完全に反故にされてしまったことになります。

9月、ソ連のゴルバチョフ大統領は、キューバ駐留軍の撤退を発表します。キューバは「この決定は,米国が進攻計画を推進することにゴーサインを出すのに等しい」と非難しますが、それ以上にどうするというものではありません。結局、自らの国土は自らの力で守る以外にはないということでしょう。

キューバは米国の侵攻に備え民兵訓練を強化、地下壕づくりをすすめます.共産主義青年同盟大会もわざわざ地下壕内で開催するという念の入れようです.まさに本土決戦、燃えよ一億火の玉です。

こういう危機の中、ハバナで第11回米州競技大会が開催されました.米国を含む39ヶ国が参加.キューバは国威をかけて大会を成功させました.大会では米国をしのぎ最高の金メダルを獲得するという偉業を成し遂げました.
ただしこの大会は、巷では不評さくさくでした。みな大きな声では話しませんが、食糧の配給が一日パン一切れというご時世に、国威発揚もないものだというのが大方の感想だったようです。

そして12月8日、ゴルバチョフがソ連解体を宣言し大統領を辞任しました.ついにソビエト連邦が崩壊したのです.これにともない年間60億ドル相当の経済援助は消滅しました。砂糖価格も500ドルからさらに国際価格の200ドルまで下落しました.いよいよキューバは丸裸となったのです。

カストロはソ連消滅を「キューバとのあいだで維持してきた友好的関係から見て,痛ましく,悲しむべき事態である」と論評.あわせて「来年は非常時が最悪の事態となり,正念場となるだろう」と予告しました。

第二次緊縮政策が発表され、いよいよキューバは「闇の時代」に突入していくこととなります。バスの運行は1/3に削減され、表通りから車の姿が消えてなくなりました。電気は一時停電というより、一時通電という感じで、家々の窓は細々としたろうそくの明かりがゆらめいているだけ、ちょっと郊外に出れば頼りは月明かりのみです。

市場為替レートは20倍近くまで跳ね上がりました。ヤミルートの物資は2000%に高騰.キューバ国民の平均月収はドル換算で40ドルから2ドルまで低下します.もう無茶苦茶です。