1989年 苦悩の始まり

ソ連・東欧崩壊の引き金となったのは天安門事件でした。天安門前の広場には五月ごろから学生らが集まり始め、解放区のような様相を呈していましたが、これが軍により弾圧されたのが、6月4日のことでした。

しかしその前から崩壊への動きは着実に広がっていました。キューバにおいてその象徴となったのが、四月のゴルバチョフ訪問でした。米国を訪問したゴルバチョフは、米国政府との蜜月関係を強調したあと、その足でキューバに向かいました。

キューバ議会で演説したゴルバチョフは、お得意の「人類共通の価値優先」を基調とするペレストロイカ路線を強調します.しかしこれは話の伏線で、真の目的はニカラグアへの武器援助停止についてカストロの理解を求めることでした。さらにキューバ軍のアンゴラへの派兵についても、これ以上の援助は出来ないと迫ります。

ゴルバチョフはこれと引き換えに今後25年間の技術協力を取決めた友好協力条約を提示しました。貿易先の87%がコメコン諸国で占められていたキューバとしては、飲まざるを得ない条件でした。それは煮え湯を飲まされるような屈辱感を伴ったものでしたが、今にして思えば、それは当時のゴルバチョフ政権が提示できるぎりぎりのものでした。

カストロは「ペレストロイカを受け入れることは,我が家で他人の妻と住むようなもの」と、相当えげつない談話を発表し、憂さを晴らすことになります。それは援助を打ち切られ、野垂れ死にを余儀なくされたニカラグアのサンディニスタ政権へのエクスキューズでもありました。

ちょうどそのとき私はニカラグアの首都マナグアに滞在していましたが、このニュースを聞いても不思議と負ける気はしませんでした。レーガン・ブッシュ政権も相当にへたり込んでいたからです。エルサルバドルでは政府軍のヘリが地対空ミサイルでバンバンと打ち落とされ、ファラブンド・マルティ民族解放戦線(FMLN)は「解放の日は近い」として、「最終決戦」を煽り立てていました。

しかし、ゴルバチョフとの会談でカストロが受けた危機感は相当深刻だったと思います。彼は7月の革命記念式典で次のように演説しています。

「もしも,明日,或いはある日,ソ連で大きな内戦が勃発したというニュースで目を覚ますことがあっても,或いは,ソ連が解体したというニュース,それは決して起こらないようには望んでいるが,そういうニュースで目を覚ますことがあっても,そういう状況にあってもなお,キューバは存在し,キューバ革命は闘いつづけ,抵抗し続けるであろう」

いずれにしてもはっきりしていることは、いっぽうでアンゴラ支援、もう一方でニカラグア・エルサルバドル支援という二正面作戦を続けることは到底不可能だということです。そこでとりあえずアンゴラ作戦の終了と迅速な撤退を行うこととなりました。

6月にはオチョア事件が発覚します。アルナルド・オチョア中将はキューバ軍内でもっとも有名で人望のあった将軍でした.アンゴラ進駐軍の司令官,エチオピア,ニカラグアにおける最高軍事顧問を歴任し,逮捕当時はキューバ最精鋭といわれる西部軍の司令官を務めていました.オチョアは軍内強硬派としてアンゴラ撤退に反対していたといわれます.

そのオチョアを先頭とする軍最高幹部14名が麻薬コネクションに関する疑惑で摘発されました。さらに6月下旬には、コカイン密輸への関与の疑いで内務省の幹部グループが逮捕されます。このうちオチョアら首謀者4名が銃殺刑となります。

この「粛清事件」は、いくつかの意味をふくんでいます。彼らの言葉どおりにいえば「今日の世界で,威信も道徳感もない国は無防備だ.英雄的な人民から名誉を奪うことは力を奪うことに等しい」ということでしょう。

しかし軍や内務省内の武闘派が一掃され、カストロ兄弟にますます権力が集中したことも間違いありません。来るべき大変革に向けて国内の一本化が図られたことも間違いありません。

さらに「麻薬」に対する厳正な態度を示すことで、米国との関係修復の動きを水面下で進めようとしたことも間違いないでしょう。たとえば、米連邦議会下院のレインジェル麻薬対策委員長はこの事件も念頭に置きながら,「ブッシュ政権は反共政策をもてあそんでおり,キューバの麻薬対策への協力の意志を無視している」と発言しています.

10月にはソ連のシェワルナゼ外相がニカラグアとキューバを歴訪、カストロと会談しています。おそらくゴルバチョフよりはるかに厳しい提案をしたものと思われます。会談後カストロは、「われわれはすでに若干の影響を被りつつある.われわれは深刻な困難に直面することになろう」と述べています。