子供の頃は人並みに野球少年だった。我が家から3戸おいてすじむかいの子は、静岡高校の三塁手で甲子園にも行ったから、ちょとした英雄だった。

突き指だらけで、右手の薬指は10度くらい反っている。逆に左手の薬指は10度ほど屈している。これではピアノは弾けない。
これほどまでに努力したのに、野球は下手くそだから、相手にされない。
だから一生懸命勉強して博学になった。記憶力だけは人並み以上に優れていた。

あの頃は野球中継はNHKラジオだけで、茶の間のラジオにかじりついていた。野球だったら、プロ野球ばかりではなく都市対抗、6大学リーグ、高校野球となんでも聞いた。早稲田の森の痛烈な打球を、立教のサード長嶋が鮮やかにキャッチして一塁アウト、という場面は今でも心に焼き付いている。

昼だったら「どっかに遊びに行け」と怒鳴られ、夜だったら、「早く寝ろ」と怒鳴られた。
ヘルシンキ大会でレスリングの笠原が優勝した時も、こっそり聞いていたような記憶がある。メルボルンの時はファンファーレが聞こえ始めると、「早く学校へ行け」と怒鳴られた。

競泳では「古川選手、潜ったまま出て来ません。50メートルのターンを終えてやっと顔を出しました」という中継を聞いていた。1500の山中とローズの競り合いも、ラジオを聞きながら、手に汗握っていたはずだ。映像の記憶もあるが、あれは後から映画館のニュースで見た記憶ではなかったかしら。

記憶を辿って行くと、以外に映画館で見たニュースとNHKで耳から手に入れた情報とが錯綜している。

いま考えると、どうしてラジオというのは一家に一台しかなかったのだろう。
親の目に触ると怒鳴られるから、怒鳴られないように隅っこに目立たないようにして、親と目を合わさないようにして、ラジオに聞き入っていた。
NHKはまんべんなくいろんな試合を中継するから、巨人一辺倒ではなかった。選手の名前はラジオで聞いて憶えた。メモしたような記憶はないから、聞きこんでは頭のなかに叩き込んだのだろう。実に脳に無駄な負荷をかけている。

西鉄黄金時代の選手もしっかり憶えている。
高倉、豊田、大下、中西、関口、仰木、玉造、和田と並ぶラインナップはいまでもスラスラと出てくる。そこへいくと南海は木塚、影山、飯田、杉山、野村までは行くがその後が出てこない。
毎日はダイナマイト打線という割には榎本、山内、衆樹く らいしか浮かんでこない。東映(日ハムの前身)に至っては一人も浮かんでこない。あの頃は駒沢球場ですね。
高橋ユニオンズはブロマイド(あの頃はプロマイ ドと言っていた)で滝投手と深見外野手というのを持っていた記憶があるが、実際に登場した場面は知らない。NHKでも実況中継したことはないのではないだ ろうか。

プロマイドの話だが、カステラの空き箱にいっぱいだったから、数百枚はあった思う。ほかに選手にファンレターを出して返事をもらうのも楽しみだった。国鉄スワローズの鵜飼選手からは丁寧な返事を頂いたことを憶えている。

叔父が静岡商業のピッチャーだったから静岡商業のフアンだった。田所というピッチャーが甲子園の春の大会で準優勝して、その後国鉄に入った。金田の裏に隠れてはいたがそれなりに勝ち星はあげていたと思う。しかしNHKが中継するような試合はすべて金田が投げたから、中継を聞いた憶えはない。

静岡商業出身で一番出世したのは南海の杉山光平選手だろう。

ベストナインにも何回か選ばれている。バットを寝かせて屈みこむようなスタンスで塁間を抜ける鋭い当たりを放つ。日米対抗でもドジャーズを相手にヒットを放ったような憶えがある。

全国各地で試合をやって、観光気分の大リーグに15試合中3,4ゲームしか勝てなかった。メジャー・リーガーが神様のように思えた。

そういえば、あの頃のドジャーズのメンバーも全部言えた、
ブルックリン・ドジャーズの黄金時代だ。今思い出すのはキャッチャーのルイ・カンパネラ、一塁のギル・ホッジス、三塁のジャッキー・ロビンソンくらいだが。いちどホテルのバーでアメリカ人とあの頃のドジャーズのメンバーを言いっこして意気投合したことがある。私の知識は雑誌に載った大和球士の大リーグ情報だったと思う。

ドジャーズについては稿を改めよう。