B.非暴力的な権力獲得への道を指し示した

ベネズエラでの権力獲得への道のりは三段階からなっている。

すなわち大統領選挙での勝利、議会での多数獲得、反革命策動の粉砕である。今日このロードマップはラテンアメリカの多くの国で有効であることが示されている。

この道筋を上昇していくための唯一無二の駆動力は絶えざる民衆へのキャンペーンであり、民衆の直接民主主義的な組織化である(ベネズエラにおいてはボリーバル・サークル)。

軍を中立化させ、少なくともその一角を掌握することはきわめて重要であるが、軍は根本的には米国の支配のための道具であり、過大評価してはならない。

 

①選挙での多数獲得

二度にわたるクーデターは、実はクーデターではない。一斉蜂起計画の一部として実行されたものである。しかし左翼の分裂、労働運動主流の無関心により蜂起は起きず、結果として孤立したクーデターとなったのである。

このようなクーデターは、ベネズエラは過去において経験している。1956年、大衆蜂起と労組のゼネストで行政機関が麻痺するなかで、空軍の一部が出動し軍事独裁政権を打倒した。

しかし国際資本の介入がはるかに強力になっているいま、このような形での政府転覆は不可能であった。

チャベスは大統領選挙での勝利を目指す方向に切り替えた。かなり巧妙に正体を隠したと思う。ペルーのフジモリを支持するポーズを取ったかと思えば、キューバに行ってカストロと握手したりと、変幻自在のところを見せた。維新の会の橋下のようにさえ見えた。

そして既成政治を打倒するという口当たりの良いスローガンで、大統領の座を射止めることに成功したのである。

しかしこれは第一歩に過ぎなかった。ここからさきがチャベスの真骨頂である。

 

②制憲議会での多数派の掌握

チャベスは、「第五共和政」の旗印を掲げ、憲法改正を打ち出した。そしてこれを国民投票にかけ成立させた。そしてこれまでの議会の選挙制度とは異なるシステムにより制憲議会を樹立させた。

ここからが豪腕のふるいどころで、制憲議会に全権限を集中させ、司法制度や選挙制度の改革を打ち出した。

保守派が多数を握る議会は休眠に追い込まれ、改革に異を唱える裁判官や選挙管理委員は次々に更迭された。つまりフジモリが自主クーデター(アウトゴルペ)という暴力的方法によって成し遂げた議会と裁判所のクリーンアップを、チャベスは合法的に成し遂げたのである。

新憲法と新選挙制度のもとで議会選挙が行われ、チャベス与党が圧勝した。

この過程を通じて、チャベスは議会と司法の抵抗を打ち破ることに成功した。これこそチリでアジェンデが失敗した最大の要因であった。

 

③反革命策動との対決

普通ならこれで権力の掌握は完了するはずだが、ベネズエラという国は政府ではなく石油公社が支配する国であった。

この国の政治は事実上、二重構造になっていた。この国の石油は、建前上は国営ということになっていたが、実際には国際資本の手中にあった。国が運営するから国営なのでなく、会社が運営する国だから国営なのである。

満を持したチャベスは、01年12月に自派のメンバーを理事に送り込んだ。「国営」というたてまえを最大限に利用して石油公社の運営権を取り戻そうというのである。

この闘いの内容については、別稿を参照していただきたい。それは1年有余にわたる激戦であったし、その過程でチャベス自らが命を落としかけた。

しかし結局、チャベスは敵をねじ伏せた。

最大の理由は、こちらが権力を掌握しており、それは選挙で選ばれた合法政権であるという大義名分があったからである。これに対する反抗は、結局合法政権に対する反革命という形を取らざるを得なかったからである。


ちょっとつけたし

以下はあまり根拠のない独断である。

このようないわば“三段階革命”の道筋は、その後エクアドル、ボリビア、ペルーでも踏襲されている。このプロットがチャベス一人の頭脳から生み出されたとは考えにくい。控えめに見ても、それはフィデル・カストロとの合作であったと考えられる。

最近は、敵も対応手段を考えているようである。それは議会の早めの行動である。ホンジュラスでは親ALBAに動いた大統領を、議会が不信任し、軍との共同で放逐するという荒業をとった。パラグアイでもでっち上げ事件を口実に議会が大統領を弾劾し、臨時大統領を選出するという挙に出ている。

一方で、政府側もこのような反革命を抑えるために強力な連合を組むようになってきている。ホンジュラスでもパラグアイでも議会による反革命を抑えることには成功しなかったが、ボリビアとエクアドルでは成功している。

両者のせめぎあいは今後とも続くと思われる。それは、たとえ大統領制度のもとでも、権力掌握の鍵は、あくまでも議会での安定過半数にあることを示しているといえる。