銅鐸文明ノート 余話

以下は酒飲み話になるが…


饒速日命の家系は、天孫族の異系である大国主の末裔で、出雲を追われて近畿に落ち延びてきた可能性がある。「倭国の大乱」が倭国と出雲王朝の対決をふくんでいるとすれば、時期は合う。
その後大和王朝の実権を握った物部氏は
、神武に寝返った饒速日命の末裔であった。その本拠地はかつての長脛彦の地盤だった生駒山西麓である。
日本書紀に出雲神話系の説話が異常に多いのもそれで説明がつく。
300年後の527年に物部麁鹿火が筑紫の君を討伐した時、出雲王朝は積年の恨みを果たしたことになる。「300年も?」と言われるが、それから200年後の古事記にも、国譲りの神話は語り伝えられていたのである。

と書いて、翌日に読み直しましたが、何のことやら分かりません。

ちょっと解説します。

饒速日命はニギハヤヒノミコトと読みます。この人物が登場するのは日本書紀の神武東征の物語です。

神武一族が大和を攻めた時、この地方は饒速日命が仕切っていました。この人は飛鳥のあたりに住んでいましたが、そこから大和川を下ると生駒山麓を向けて大阪湾岸に出ます。そこには長脛彦という豪族が住んでいて、この人が軍事全般を仕切っていたようです。

この関係は卑弥呼の時代に那の国(いまの博多)が半島からの玄関口として、政治・軍事を担っていたのに対し、そこから奥まったところに卑弥呼が住んで神事・祭事を担っていた関係と似たところがあります。

饒速日命は天孫族の大神を名乗っていました。これは九州王朝と同祖・同格の神です。神武は饒速日命を救い、支配体制の一角に組み込みました。饒速日命は長脛彦を殺し、神武に忠誠を誓いました。この一族がやがて物部氏となっていきます。

ところで饒速日命が住んでいた飛鳥のあたりでは三輪山伝説があり、大物主神が祀られています。大物主神は出雲伝説の大国主命と同一のルーツであると考えられています。

そうなると饒速日命の一族がどこからやってきたかということになります。そこで出雲の線が浮かび上がってきます。

同じ天孫民族であるにもかかわらず、神武は現地に来るまで饒速日命の存在を知らなかったというのも、饒速日命が九州王朝以外の天孫民族の出自であることを示唆します。

大国主命の一族は100年代の後半に九州王朝に攻撃され、“国を譲った”あと、東に向かい、生駒山麓に居を構えたのではないか、そういう可能性もあります。

これは神武東征が200年代末あたりに行われたということを前提とした話ですが…

もう一つ、彼らが出雲に王朝を開いたとすれば、そこでも銅鐸文明を破壊していたはずです。それは紀元前後のことでしょう。この頃にも一度、大量に銅鐸が破棄された時代がありました。ただそれが出雲地域に集中していたかどうかは、いまのところ確認できません。