民医連は決して徳洲会のような崩れ方はしないだろう。
民医連は攻めには弱いが守りには強いのである。

民医連は中央集権制で独裁制で、テッペンがやられると瓦解するのではないかと思われている。
これは逆だ。なぜなら民医連は中央集権でも独裁でもないからだ。中央集権で独裁なのは、むしろ徳洲会の方だ。だから崩れるときにはあっという間に崩れる。

民医連は一人ひとりが民医連だ。誰かが「この指止まれ」と言われれば止まるが、それは一人ひとりの主体的な判断だ。
だから切り刻まれても死にはしない。iPS細胞ではないがトカゲの尻尾からでもトカゲになれるのだ。「尻尾と言えども民医連」なのだ。

しかし、一人ひとりが民医連というだけでは民医連ではない。それが集団となることによって民医連となる。
ヘーゲル風にいえば、「否定の否定」である。要は民医連は思想であり、鍛えに鍛えられて到達した結論ということだ。

昔はこれを民主集中制と言ってきた。これは不正確かつ不適切な表現である。とりあえずは主体的集団主義といっておこう。
そのベースになるのはフラタニティ(博愛)とソリダリティ(連帯)である。さらにその根っこには相互の生き方に対するオマァジュ(敬意)がある。

民医連の医者は、一人ひとりが訣別と回天の“物語”を背負って活動している。ダテに民医連をやっているわけではない。