その3 銅鐸文化の変遷

①銅鐸の原基

すでに記したように、銅鐸の原基となるものは長江流域で生み出されたと考えられる。それが朝鮮にわたり、九州北部まで到達した。

この時点では、小型で無銘の実用的器物であり、「カウベル」類似のものであった。しかし実用的に必要とされる以上の銅鐸が作られていることから、祭祀用に用いられ始めていた可能性はある。吉野ヶ里遺跡でも九州初の銅鐸が発見されている。

紀元前2世紀の弥生時代中期初頭にさかのぼる。九州の銅鐸は朝鮮式で高さ20センチメートル位、吉野ケ里の銅鐸で28センチだが、紀元前100年ころには、早くも40センチを超す大型銅鐸が現れ、朝鮮の伝統から離れる。

銅鐸は大型化することによって、「銅鐸文化」となった。

ところで、考古学者はしばしば弥生時代/中期/中葉などの時代区分で表現するが、これが門外漢にはわかりにくい。以下若干解説しておく。外向けには西暦表記してほしいものだ。

弥生時代というのは、「稲作技術導入によって日本での水稲耕作が開始された時代」というのが規定である
一般には、紀元前250年ころから紀元250年ころまでの500年間を指す。ただし始まりはさらに遡る可能性が強くなっている。
弥生時代の時期区分は新たな知見が加わり大幅に変更されている。現在主流となっているのは、炭素同位体比を用いたもので、早期(紀元前1000年頃から)・前期・(紀元前800年頃から)中期(紀元前400年頃から)・後期(紀元100年頃から)の4期区分論が主流になりつつある。
さらにそれぞれの時期に亜区分があり、中期は紀元前230年までの前半、紀元前60年までの中葉、紀元100年までの後半に分けられている。
旧区分で表現された文献もあるので要注意。旧区分では
縄文晩期と弥生早期の境界は紀元前430年頃とされている。

③銅鐸の巨大化

銅鐸の大きさは、九州、出雲、山陰、畿内の順に大きくなっている。これが出雲では約50センチ、近畿では1メートルを超えるようになる。これが本来のベルとしての役割を果たしていたか否かについては議論があり、一節では紀元前後に聞く銅鐸から見る銅鐸への変化が起きたとしている。しかし最後まで鳴らす機能は失われなかったという説もある。国立民族博物館のホームページで実際に鳴らした音を聞くことができるが、絶対的音量は不明である。

巨大化を可能にしたのは土製鋳型の開発である。それまでの石製の鋳型は大きさに限りがあったが、土製鋳型によりその制限は大幅に緩和された。同時に肉厚の薄い銅鐸を作る技法も開発され、銅などの原料の節減が可能になった。1メートルをこす鋳造物を厚さ2、3ミリで鋳出すことは現代技術でも極めて困難なのだそうだ。

銅鐸の鋳造は同じ形の鋳型を合わせ、その内部に銅鐸の厚み分を削った土製の中子型を据え、青銅を流し込みます。鋳型には石製と土製鋳型の外枠があります。土製鋳型の外枠は、土器と同じように粘土を野焼きした丸瓦状のものです。(唐古・鍵考古学ミュージアムサイトより)

④銅鐸の装飾化

朝鮮半島では、朝鮮銅鐸と言われる文字も絵もない小型のものが出土する。これに対して、銅鐸文化を担った銅鐸には例外なく文様が施されている。銅鐸紋様はすべて弥生土器に共通する紋様である。

また文様の他に絵が描かれている銅鐸も数多く存在する。そこでは弓矢をもつ狩人、矢を負ったシカ、盾と戈をもつ武人、舟、高床式家、臼、脱穀や漁の様子が描かれる。またカラスが神聖な動物として描かれる。これらの絵柄は、農耕的性格を示しつつも、採集にも大きく依存していた生活を想像させる。水田耕作を主体とする弥生式のものとはやや異質な感を受ける。

文字または文字様の紋様は全く描かれない。

⑤青銅の原料は渡来物質?

弥生時代中期は朝鮮半島産、後期は中国華北産の鉛が用いられ、日本産の鉛はまったく認められない。原料は銅銭である可能性が高いようである。九州王朝(もしくは朝鮮との直接交易)に産物を売り、その対価として銅銭を受け取ったが、貨幣経済がなければ無用の長物である。

この渡来説には異論もある。国産でなければこのように長期にわたり製造し続けることは難しいという主張である。最近の研究では、化学分析の結果島根県の銅鐸の鉛は神岡のものだと言われています。(森浩一同大教授)

⑥銅鐸の分布

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全銅鐸の分布

北部九州からも出土しているが、実用品としての鈴であった。

大きな銅鐸は圧倒的に近畿周辺が多い。近畿地方で考案され、周辺地域へ波及していったと考えられる。

銅鐸の分布は時代とともに移り変わり、特に、弥生時代の中期までと後期ではその分布に大きな違いがある。最初は中国地方、四国、瀬戸内に集中するが、扁平鈕式新段階になると、各地に地域的な銅鐸群が生み出される。突線鈕式銅鐸の段階になると、その中心は畿内周辺部と東海地方へ移っていく。

同じように形態・文様も時期により変化している。

⑥銅鐸は大きくなって、突如として消えた

紀元前後、いったん銅鐸文化は衰えた可能性がある。この時代に埋められた銅鐸もかなりの数に上る。しかしこの時代に何が起きたのかを知る手がかりは全くない。

紀元100年頃から、銅鐸文化は再び隆盛を迎える。倭国内乱により九州政権が弱体化した可能性もある。畿内ではこれまでにもまして大きく装飾的な近畿式銅鐸が開発された。銅鐸時代の末期となる200年頃には、銅鐸の高さは1メートルを超えた。

紀元200年を過ぎると、畿内からの大形銅鐸の出土例が著減する。近畿式銅鐸の終焉には、故意に壊すような行為が行われている。新たに台頭した権力者にとっては邪魔だったのかもしれない。


と、とりあえずこの辺でやめておく。玉が少なくなって、石が多くなってきた文献読みがしんどくなってきた。