予想外に長くなってしまったので、少しポイントごとに分けて整理していく。

銅鐸を見る視点

まず、銅鐸に注目したきっかけだが、普通の人とちょっと変わっている。

この間、遺伝子から見た「日本人の起源」からずっとはまって調べているうちに、縄文人に二系統あって、樺太→北海道→東北の系列と、朝鮮半島東側を海岸伝いに降ってきた系統があって、後者は環日本海文化を形成したと考えるようになった。

この流れは縄文時代だけでなく、紀元300年ころまで何波にもわたって繰り返された。それは中国→朝鮮南部→北部九州という流れの文化と別個に、おそらく同時代的に進行していたのだろうと思う。

九州北部に集中的に入った弥生人系に比べると、環日本海人は山陰から福井あたりまで面で入っている。そして海岸から入れそうなところには食い込んで行った。それが岡山から香川、阿波にかけての流れ、但馬から播磨への流れ、山城から難波、大和への流れ、福井から近江、尾張への流れとして入ってきたのだろう と思う。

これらは生産技術的には九州北部に後れを取っていた。したがってある意味で従属関係にあったろうと思う。そして九州北部から技術を吸収した。これは朝鮮半島南部における馬韓・弁韓と辰韓との関係に比べられるべきものである。

この人達が後世に残した唯一の遺産が銅鐸である、と考えた。銅鐸そのものというより、銅鐸を“よるべ”とした、いわば「銅鐸教」社会がそこにはあったのではないか。これが銅鐸に着目するきっかけである。

だから銅鐸の様式や紋様などについてはあまり興味はない。銅鐸社会がどのように九州北部の権力から自立して成立したのか、そして、どうして地上から姿を消してしまったのか、それを知ることが、銅鐸と運命を共にした環日本海人を偲ぶ“よすが”になると思ったのである。