紀元前5万年ころに、第一次の南下があったとしよう。氷河期の寒さを逃れてイルクーツクあたりから旧石器時代人が降りてくる。
A.内蒙古から黄河流域に降りた人々が主流派で、中国の主部に分布した。この内最も南方まで進んだ人々が1万年前に長江文明を築いた。
B.もう少し東に進んだ人々は満州から朝鮮半島へと進んだ。
C.更に東に進んだ人は1万年前に間宮海峡から樺太・北海道と進み、日本の旧石器時代を形成した。
D.それと同じ経路で三内丸山遺跡に代表される北海道・東北縄文文明を形成した人々がやってきた。
遺伝子解析からは、これらのことがほぼ確実となっている。

次に考古学的研究から確実に言えること。
東北・北海道の縄文文化は、明らかに本州中部を境としそれより西には進出していない。照葉樹林と落葉樹林の境界が、東西の縄文文化の境界を形成している。
しかし密度は低いとはいえ西日本にも縄文文化はあるので、これは朝鮮海峡をわたって西から来た縄文文明と考えられる。

ここからさきは私の推測になるのだが、北満アムール川流域で、人々は二手にわかれ、別のルートを経由して日本にたどり着いたのではないだろうか。

先ほどの分類でいえば、B の人々の存在がもっと研究されていいのではないかと思う。私はこれを環日本海文化として括るべきだと思う。渡来人で一括するのではなく、環日本海系か馬韓・弁韓系かの分析が必要ではないだろうか。

流れからいえば豆満江の河口に出て、海岸沿いに南下し、迎日湾あるいは蔚山あたりから対馬海流に乗って出雲、伯耆、但馬、丹波、若狭、越前、加賀と基地を形成していく流れである。

弥生時代に入って長江文明の流れをくむ百済系が日本に流入してきた時、これを迎えたのはこうした環日本海文化を担った人々だったのではないだろうか。

彼らは北九州を百済系に渡し、日本海を東に向かった。そして定着できそうな所があれば定着した。その中で最大の植民地が山城から大和にかけての平野部、そして琵琶湖を囲む滋賀の一帯であり、長脛彦の銅鐸系一族だった。


弥生=渡来=水田耕作と、3つを同じに見てしまうのは間違いの元だ。水田耕作は基本的には受容の問題だと思う。環日本海系も遅ればせながら水田耕作を受容し、独自の生産システムを構築したと思う。

問題は武器だ。社会を支配するのは武器であり武装集団である。高度に発達した長江文明が北方からの侵入者に蹴散らされたのも、金属製の武器と馬の使用によるものである。

だから縄文・弥生や水田耕作を本質的な時代区分としてはならず、武器としての石器・青銅器・鉄器で区分しなければならない(弥生式土器を作るためにはより高温の火がなければならず、それは金属器の使用と一致するとも考えられるが)