イポリット「ヘーゲル精神現象学の生成と構造」ノート

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ヘーゲルは意識のなかにあるままの「知」を考察している。これが現象知である。

みずからが絶対知に高まっていくのは、この現象知を出発点とするからである。そしてこの現象知が自らを批判するからである。

イポリットの解説

現象知と絶対知の対立はシェリングが生み出した。しかしシェリングはこの関係が引き起こす2つの矛盾について展開していない。

一つは絶対知が絶対者の知であるなら自己知(主観)との関係はどうなるのか、もうひとつは絶対知が一旦確立すれば、現象知は絶対的同一の中に消滅していくのかという問題である。

ヘーゲルは哲学の枠組みについてはシェリングの立場に立ち、カントやフィヒテの「反省の哲学」を批判する。

哲学は論理学ではない。知を扱う学問ではなく、認識すべき対象に直接肉薄しなくてはならない。

カントは範疇を演繹しているにもかかわらず、その原理においてたんに「批判的」でしかない。その主観主義は出発の時からの結論でしかないのである。

シェリングはこの「批判」の見地を乗り越えた。主観的なものと客観的なものとが、知の中において“絶対的に同一である”という事態から素直に出発しなければならないのだと。

ここでイポリットは言う。

序論において、ヘーゲルは「哲学は認識論ではない」とし、カントへの批判を繰り返した。しかし「現象学」は、まさしくカントやフィヒテへの復帰を示している。このことはどう理解すべきなのだろうか。

私は考える。

①主観も客観も過程であり流動する。それが知(主体)の中において統一される。そういった過程抜きに知(主体)はありえない。その故に、主観と客観は絶対に同一でなければならない。

②この過程が統一的に知となるためには、知が主体化されなければならない。客観的なものは主観化されなければならない。この過程抜きにはカント流の概念操作に終わってしまう。