虚弱高齢者シェルターとしての老健

美しい言葉でなく、リアルな有り様として見ると、老健は虚弱高齢者のシェルターとなっている。

低収入の階層においては、とりあえず、もっともアクセスの容易な施設となっている。4人収容のいわゆる大部屋であれば、介護付き有料老人ホームのほぼ半額の費用で入ることができる。

そこでは高齢者下宿では得られない介護ケアが受けられる。

ただ、こういう実態は老健を作った本来の政策的趣旨と著しく乖離している。

肝心なことは高齢者向けの施設体系の見直しであろう。これらの人々は政策的には特別養護老人ホームに括られるべき人々だ。

老健がシェルターであるとすれば、特養へのスムーズな移動が保障されなければならない。

一方では、療養型病床の政策的削減が続けられており、本来は医療メインのケアーが施されなければならない人が、老健にしわ寄せされつつある。時によっては事実上の看取りをも強要される場面がある。

老健は中間施設であり、終末施設ではない。老健には3つの出口がある。在宅か、特養か、医療施設かだ。タクシーか、送迎バスか、救急車かという三択でもある。霊柩車はお呼びではない。

出口がきっちりと確保されていれば、老健はシェルターとしての機能をもっと発揮できると思う。とりあえずは、施設長としては、療養型病院との連携を強化していこうと思う。

生活再構築施設としての老健

これまで、老健では在宅復帰に向けてのリハビリという観点から、リハビリ医学の用語で語られることが多かった。

リハビリ医学は生活再構築の面で先進的な歩みを続けてきたし、そこには学ぶべき多くのものがある。

ただリハビリ医学は基本的に右肩上がりの思考なので、老健の現場では必ずしも適合しているとは言いがたい。機械的にリハビリ医学を適用しようとすれば、むしろ現場のケアワーカーの反発すら招きかねない。

現場に必要なのは右肩下がりの思考ツールなのである。

①人間の生理機能が、どういう順番でどのように落ちていくかについての理解がなければならない。

②そのうえで、落ちた機能をどのように補うか、どのように支えるかの戦略を立てなければならない。

③そして、落ちた状態での新たな生活をどう再構築していくか、の目標を立てなければならない。

ほとの住む部屋がだんだん水で満たされてくる。ぎりぎりになった時に、背伸びをすれば、息ができる。それでも足りなくなったらつま先立ちする。それでもダメなら顔を上に向けて口だけは水面上に顔を出す…

これが適応であり、踏み台に乗せてやるのが支援である。

おそらくそのイメージをデザインするのはリハ技師の仕事になるのだろうが、現場では未だそこまでの進出は果たせていない。

ミニマムコアーは「笑顔」

私は、生活していく上でのミニマムコアーは「えがお」だと思う。気持ちいいという笑顔、楽しいなという笑顔、「お世話になりますね」という感謝の笑顔である。

これは以前、重度障害者施設「びわこ学園」で長年、療育に携わった先生の文章を読んで感じたことである。

生きていてこそ感じられる感覚であり、生活していてこそ湧き出てくる喜びであり、「笑顔」はその表出である。そしてその積み上げが「生きていてよかった」という実感をもたらすのだろうと思う。

人生は苦しみでもあり悩みでもある。とくに病を負い、障害を抱える人にとって悩みは深い。

現場のスタッフは苦しみをとることしかできない。生活援助と除苦・除痛が二本柱となる。その積み重ねの中で、「笑顔」の生まれる環境を整えることが任務の基本となる。

逆に言うと、現場の関わりがポジティブに進んでいるかどうかの指標として、「笑顔」は最も重要なポイントとなるだろう。

いわば、老健の職員の日々の目標は、入居者の「笑いをとる」ことにある。その点では「お笑い芸人」と通じるところがあるのかもしれない。