体罰論をめぐる橋下市長の考えのブレが甚だしい。
基本的に橋下市長は体罰容認論であったはず。
それが今度は逆ぶれして、体罰を加えた側に猛烈なバッシング。
結局この人は、物事を突きつめて考えたことがない人だということがわかる。

体罰、教育、スポーツの三題噺

今回の体罰は教育と体罰の関係、スポーツと体罰の関係ということで、異なった2つの議論が錯綜している。

体罰は教育の一環だから許されてきたのだろうか、スポーツ指導の一環だから許されるのだろうか。

一般にスポーツの世界では体罰容認、教育の世界では体罰否定の雰囲気が強いが、私は逆だろうと思う。スポーツというのはある意味で戦闘行為を平和的に行うことであり、暴力の否定なしには成立し得ない。

いっぽう、教育というか、しつけの一定の段階では、私は体罰に違和感は感じない。犬や猫のしつけと同じ事だ。(うちのガキは35歳にもなって片づけ一つ満足にできない。しつけが足りなかったと反省している)
それに、痛みというのは、とくに人から与えられる痛みというのは、究極的には味わってみなければわからないものである。
いったん体罰を容認すれば、無原則的に拡大されるのではないかといわれるが、そこは常識だ。

しかし高校生を相手というのは非常識だろう。義務教育を終了した高校生は、基本的には紳士・淑女として扱われなくてはならない。クラブ活動での体罰も言語道断だ。自由意志を前提とした課外活動において、体罰を加えるいかなる権限も発生する余地がない。

体罰と刑罰

一般に刑罰というのは、国家による体罰だ。物理的暴力ではないにせよ、社会的に痛い目に遭わせることで、犯罪の再発を防ごうとするものだ。
もちろん「目には目を、歯には歯を」という復讐の原則ではない。それ自体は教育のための手段だ。それは復讐の禁止と鏡像関係にある。

とはいいつつも、もちろん、物理的暴力と非物理的暴力はしっかり分けなければならない。罰金刑や禁錮刑は認められても、ムチ打ちとか手足の切断等は許されない。これは人間の尊厳の尊重という別の論理である。

バッシングという不正常な罰
 
ところで法的刑罰以外に社会的刑罰というのも、不定形な形で存在する。いわゆるバッシングというのは、英語で文字通り叩くという意味だ。これはあまりいい事はない。しばしば度外れになる。その典型がリンチだ。

何よりもいけないのは、バッシングする側に、バッシングすることへの責任が問われないことであり、バッシングする側にはなんの痛みもないことだ。

いま橋下氏がやろうとしていることは、バッシングそのものではないか。橋下氏が私人であれば、軽蔑されこそすれ、それ自体が糾弾される内容ではない。しかし公人としては、その片棒を担いだり、先頭に立ったりするのは許されることではない。

体罰は、教育の中に厳密に位置づけられなければならない。バッシングとは峻別されなければならない。