隋書、旧・新唐書の読後感

不勉強で、随分知らないことがいっぱいあった。

ダラダラと、箇条書きにメモしておく。

①倭国というのは筑紫城に居を構える王朝のことで、神武以前にすでに32代を数えていた。

②神武というのは32代筑紫王彦瀲の子で、故あって大和州に移って統治し始めた。平ったく言えば筑紫王朝の分家である。したがって、その建国に関するフォルクロアは共通する。

③筑紫王は尊を号としたが、大和政権は天皇を号とした。(ミコトとスメラミコトの関係か?)

④608年に来訪した隋官僚は、竹斯国より以東十余国がいずれも倭に附庸していることを確認している。そしてその先の海岸に接して倭国首都があったことを現認している。(豊前、長門、周防、安芸、備後、備中、備前、播磨、摂津、河内、大和で数は合う)

⑤この時会見した王は、礼儀を知らない田舎者であることを自ら認めている。

⑥その後の60年に渡り、東都の公式の接触は2回のみで、しかも不調に終わっている。それは663年の白村江の戦闘へとつながっていく。

⑦新唐書では651年の使節が「天智が死に、子の天武が立った」と述べたとされているが、これは間違いである。表仁の日本訪問の日時などかなり誤差が目立つ。

⑧670年の遣唐使は、大和朝廷はかつて小国で倭の属国だったこと、のちに倭国の地を合わせたこと、かつての倭国との違いを明確にするため、日本と改号したこと、を明らかにする。白村江での敗戦からわずか7年後のことで、「もう倭国のふりをするのはやめよう」という感じがよく出ている。

⑨マイナーな話題だが、「衣服の制、頗る新羅に類す」というくだりは目を引く。