隋書、旧・新唐書の記載

日本は、古の倭奴国なり。(新唐書)

新羅の東南に在り、大海の中で暮らす。代々中国と通交する。(唐会要)
魏より斉、梁に至るが、代々中国と相通じた。(隋書)

佛法を敬う。衣服の制、頗る新羅に類す。(旧唐書)
新羅や百済は皆、倭を大国で珍物が多いとして、これを敬仰して常に通使が往来している(隋書)。

欽明の十一年は、梁の承聖元年(552年)に当たる。(新唐書)

600年 倭王、姓は阿毎、字は多利思比孤、号は阿輩雞彌、遣使を王宮に詣でさせる。

遣使の言。「王の姓は阿毎氏。およそ三十二世、皆が「尊」を号として、筑紫城に居住する。(新唐書)

剣士の言。「彦瀲(第32世)の子の神武が立ち、改めて「天皇」を号とし、大和州に移って統治する。(新唐書)

607年 多利思比孤が遣使を以て朝貢。沙門数十人を仏法の修学させた。隋は「恙無きや」の国書に蛮夷の書に無礼あり。再び聞くことなかれ」と怒る。(隋書)

608年 隋、文林郎の裴世清を使者として倭国に派遣。竹斯国に至り、また十余国を経て、海岸に達した。竹斯国より以東は、いずれも倭に附庸している。(隋書)

王は、「我は夷人にして、海隅の辺境では礼儀を聞くことがない」と自己批判。裴世清は、「朝命は既に伝達したので、すぐに道を戒めることを請う」と応じる。(隋書)

631年、遣(唐)使が入朝。(唐は)高仁表を行かせて諭したが、王と礼を争い不平があり、天子の命を宣することができずに帰還した。(新唐書)

641年 表仁は海を乗り出し、数カ月で到達した。表仁には慎みと遠慮の才覚(外交の才能)がなく、王と礼式で争い、朝命を宣下もせずに帰還した。ここに再び通交が途絶えた。(唐会要)

648 久しく経って、改めて新羅の使者に付して表を奉し、以て日常の音信を通じた。(新唐書)

650年、新羅は高麗と百済の暴虐の為す所となり、高宗は璽書を賜い、出兵を出して新羅を援けさせた。(新唐書)

651年、遣唐使を派遣。「天智が死に、子の天武が立った。死に、子の総持が立った」と報告している。(新唐書)

654年 遣唐使を派遣(651年の記載と大要同じ)。遣唐使の言。「倭王の国は新羅と近接している。新羅は平素から高句麗や百済を侵略し、もし危急が生じれば、倭王は宜しく派兵してこれを救う」

670年 遣唐使が朝貢。①夏音(漢語)を習得し、倭名を憎み、日本と改号したと報告。②また日本は小国で、(過去に)倭に併合された故に、その号を冒すともいう。さらに領土は大山までで、その外には毛人が住んでいるとする。(新唐書)

日本は昔、小国だったが倭国の地を併せた。中国はこれを疑う(旧唐書)

701 初めて“まともな”遣唐使、朝臣真人粟田が派遣される。(新唐書)