新羅本紀の中から倭国関連の事項を抜き出してみた。

繰り返すが、新羅は倭国よりはるかに成立は遅く、どちらかといえば未開の国であった。

日本書紀も信じないのにどうして新羅本紀を信じるかといわれると、たしかに困ってしまう。しかし倭国の本紀というものは過去に存在していて、それが527年に抹殺されたという仮定の上に立つのなら、その矛盾は解決する。

そして百済にも、高句麗にも本紀があるのだから、それと肩を並べる倭国にも本紀があったと考えるほうがむしろ合理的ではないだろうか。

もう一つ、高句麗との関係である。新羅が国家として初めて認知を受けたのは377年、しかも百済や倭国が魏とそれに連なる東晋、梁などの南方国家からお墨付きをもらったのに対し新羅は前秦という北方国家に国家関係を求めている。

新羅の地政学的位置からすれば、これは高句麗と同盟関係を結ぶ以外には不可能だったはずである。

それは倭国の朝鮮侵攻と時期的に重なっている。これらのことから考えて、この時新羅は国際政治のまっただ中に投げ込まれただろう。政治的には神話の世界にとどまることは許されていなかった。

然るが故に、遅くとも377年以降の記載はほぼ正確と考えて良いのだろうと思う。それをどのくらい、むかしまで遡れるかということになるが、まぁ1,2世代はいいんじゃないかと考えている。卑弥呼が新羅に使者を送ったなどというのは後世の創作と考えて間違いない。

そうすると台与と張政が別れてから、広開土王碑が出現するまでの100年余りのうち、後半50年くらいは新羅本紀でカバーしてもいいのではないかと思う。


BC50年? 倭人が新羅に侵攻、赫居世王の説得に応じて撤退

14 倭人が兵船100艘余りで、新羅に攻め寄せる

57 新羅で脱解王が即位。倭国から東北一千里の多婆那国の王の子とされる。(新羅本

紀)

59 新羅と倭国が国交を結び、互いに使者を交換

73年 倭人が蔚山に侵攻。新羅の司令官羽烏が戦死。

77年 新羅、伽耶と戦って大勝

85 百済が新羅に侵攻

96 伽耶軍が新羅に侵入。このあと20年間、伽耶との闘いが断続的に続く。

105 新羅と百済が和睦。

122 倭兵が攻めてきたという流言に人々が逃げ惑った。

123年 新羅、倭国と講和を結ぶ。

167年 百済との争いが再開される。

173年 倭の女王卑弥呼が使者を送ってきた。(後世の創作の可能性あり)

193年 倭人が飢饉に見舞われ、食を求めて1千余人が新羅に流入

201   伽耶が新羅に講和を求める

208年 倭人が新羅との国境を犯す

232 倭人が首都金城に攻め入る。王も出陣して倭人を壊滅させる

233年 倭人が東部国境に侵入。新羅軍は倭人の兵船を焼き払う。

238魏、遼東に遠征し公孫淵を誅殺。さらに海上から楽浪、帯方を攻撃し制圧。東夷の

民たちは中国の支配下に入る。

286 百済が新羅に講和を求める。

287 倭人が新羅領内に侵攻。集落に放火し、1千人を捕虜にして立ち去る

292年、倭兵が沙道城を攻略。

294年、倭兵が長峯城を攻略

300年 倭国と使者を交わす。倭国王は王子の通婚を要求

345 倭国は新羅に国書を送り国交断絶

346 倭国は新羅の首都金城を包囲。新羅は食料が尽きて退却しようとした倭軍を追撃して敗走させる。

364年 倭軍が侵入。新羅は金城付近で待ち伏せ戦を挑み、撃退に成功。

366 新羅、百済の使者を受け入れ。羅濟同盟成立。

377年 前秦に初めて新羅が朝貢。新羅の前身が辰韓の斯盧国であるとのべる。

391年 倭が渡海し、百残・○○・新羅を破り、以って臣民と為しぬ。(広開土王碑)

391年 高句麗、百済の關彌城を落とす。(百済本記)

392 新羅、高句麗の求めに応じ同盟を結ぶ。

393年 高句麗、百済を征伐して10城を陥落

393年 倭軍が侵入し首都金城(慶州市)を包囲。新羅は籠城戦の末に撃退。

396年 高句麗が百済を撃破。8千余を捕虜とした。

397年、百済は王子を人質として倭に送り通好する。

399年、新羅が倭の侵攻を受ける。王は倭の臣下となる。(広開土王碑)

399 百残、誓いに違い倭と和通す。王、平壌に巡化す。(広開土王碑)

400 高句麗が新羅反倭派の求めに応じ、歩騎五万を派遣する。新羅城を制圧した後、倭軍を任那・加羅まで追撃する。

402 新羅政権が高句麗派から倭派に交代。王子を人質として倭に送って通交する(新羅本紀)

404 倭軍が帯方界まで進出するが高句麗に撃退される。(広開土王碑)

405 倭兵が侵入して明活城を攻めるが、撃退される。

406 後燕王自ら遼東に侵攻したが、勝てずに帰った。

407年 倭人が東部、南部をあいついで侵掠した。

413年 広開土王が死去。東晋は高句麗王を「高句麗王・楽浪郡公」に封じた。

415年 風島の戦い。新羅が倭軍を破る。

413年 高句麗・倭国および西南夷の銅頭大師が、東晋に貢物を献ずる。南史倭国伝では倭王讃があった。使いを遣わして、朝貢したとされる。

421 倭王讃、宋に遣使、武帝より除授される

438 讃没し弟珍が王となる。

438 珍、宋に遣使、安東将軍倭国王の号を受ける

440 倭人が南部と東部の辺境を侵掠した。

443倭王済、宋に遣使、安東将軍倭国王の号を受ける

444 倭兵が金城を包囲。将兵の多くが倒れ、王も囲まれたが難を逃れた。

459 倭人が兵船百艘余りで東海岸を襲撃、さらに進撃して月城を攻める。

462 済没し世子興たつ。

462 倭人が襲来して、活開城を陥れ、千人を連れ去る。

462 興、宋に遣使して安東将軍倭国王の号を受ける

463 倭人が歃良(ソウリョウ)城を攻めたが、勝てずに退却

476 倭人が東部の国境地帯を侵掠

477 倭軍が侵入したが、得るところなく引き上げる。このあと倭軍の侵攻は一旦ストップ。

478 倭王武が宋に上表文、安東大将軍倭王の号を受ける

479 宋滅び斉建国⇒称号安東大将軍倭王武無効

479 南斉の高帝、王朝樹立にともない、倭王武を鎮東大将軍に進号する

502 梁の武帝、王朝樹立にともない、倭王武を征東将軍に進号する

562年 伽耶(大伽耶)が新羅により滅亡。

564年 新羅が北斉に朝貢。568年には南朝の陳にも朝貢する。

600 大和朝廷による第一次新羅征討。新羅はいったん降伏。

602 第二次、第三次、新羅征討が企図されるが中止。