これだけでも分かるポイントがいくつか有る。


①紀元前後にすでに都市国家群を形成していたこと。それは馬韓に次ぎ、弁韓辰韓を上回る規模の社会であったこと。
②三韓、濊などとともに楽浪郡を通じて漢に対して主従関係を結んでいた。
③57年には倭の奴の国だが、107年には倭国王として朝貢しており、この間に単一国家としての形成が進んだ可能性がある。
④帥升王のあと倭国は内乱時代に入った。その内乱は絶対権力者の勝利で終わることはなく、シャーマンの擁立による和議制に移行した。そこには信仰の共通性が存在した。
⑤卑弥呼の治世は60年におよぶ。常識的に見て長すぎる。前半部分が創作なのか、あるいは「卑弥呼」がシャーマン職を指す名だった可能性がある。

⑥卑弥呼に関する核心的事実は、239年に魏の招集に応じて楽浪郡に使者を派遣したことにある。これにより「親魏倭王」という地位が国際的に確定した。

⑦魏が楽浪、帯方郡を設置し嶺東地方を編入した際に、辰韓(後の新羅)が大規模な反乱を起こしたことは重要かもしれない(新羅本紀に記載なし)。安東・鎮東将軍の役割は新羅の監視なのではないか。

⑧倭国が二度目の内乱状態となった時、魏は張政を現地に派遣した。張政は1年に渡り倭国に滞在し、狗奴国との戦闘、卑弥呼の死、内乱、台与の女王就任、国内の平定の経過のすべてを現地で体験した。そして台与に見送られて倭国を去った。したがって倭人伝は紀行記ではなく滞在記としての重みを持っている。

⑨辰韓の出自である新羅が377年に前秦に朝貢している。これが国際舞台への初登場である。東普でなく、前秦に朝貢していることは意味があるのか。高句麗の仲介があったと考えるべきか。

⑩384年には早くも百済まで仏教が伝来している。仏教は支配階級に必須のアイテムだ。本来ならほぼ同時に日本にも仏教が伝えられておかしくない。

⑪広開土王碑の記載とも合致しており、これ以降の新羅本紀はほぼ信用して良さそうである。後進国の新羅さえ歴史書を編纂しているのに、大和朝廷には600年ころまでまともな史実が記録されていない。なかったのではなく。失われた、あるいは抹殺されたと見るべきではないか。

⑫台与に関する記事の後、413年の東普への遣使までの間、中国との関係は途切れる。これは主として中国側の事情によるものらしい。その間隙を埋めるのが広開土王碑である。比較的正確とされる百済本紀には倭国の情報は意外に乏しい。

⑬問題は新羅本紀であるが、とにかく倭国が新羅を上から目線で見ていたことは間違いなさそうだ。新羅側にあまり強い敵意は感じられず、格の違いが互いに意識されていたのではないだろうか。