日本書紀以外の資料で年表を作ってみると分かるのだが、倭国は九州に本拠を置きつつ朝鮮半島南部にも根拠を置く「両洋国家」である。
その目は常に半島と中国に向けられている。

かつてのイギリスと同じように、ノルマンジー半島の確保は政権の至上課題である。ノルマンジーを確保するだけでなく、そこからフランス全土の支配へと志向している。その本拠地はロンドンであって、リバプールでもグラスゴーでもない。

倭の五王が九州王朝の王であることは、ほとんど疑いのない事実だろうと思う。そしてその本拠地は博多湾岸から筑後川に至る回廊の何処かでなければならない。
五王の最後である武が、中国の政権と関係したのは502年まで確認されている。そこから527年の磐井の敗死まではおそらく1,2世代であろう。したがって磐井は間違いなく倭王武の直系である。

527年の時点で九州王朝と大和王朝の力関係が如何であっったかは想像できない。ただ少なくとも大和王朝が九州王朝を凌駕するほどの経済力を蓄えていたことは間違いない。
この両勢力がガチンコの大勝負をすれば、血を血で洗うほどの内戦になっていただろう。九州王朝も、わずか一度の決戦でむざむざ破れてしまうほどの弱体政権とも思えない。

とすれば、事件は大和王朝のだまし討ちだった可能性がある。
だいたい、九州王朝が新羅とくっつくなどありえない話だ。だいいち新羅側文書にそのような雰囲気は毛ほどもない。それは大和王朝が九州王朝との戦争を始めるためにでっち上げた口実にすぎない。

倭王武の路線がそのまま継続されていたとするならば、九州王朝は依然として新羅主敵論だったはずで、むしろそのために物部軍は動員されたと見るべきではなかろうか。だからこれだけの大軍が九州王朝の領内に入っても、九州王朝側は全く警戒していない。

それが突如、磐井が新羅と内通していると騒ぎ出し、刃を九州王朝の方に向けたのだから、みな唖然としてしまう。
本拠地の甘木周辺には守備兵くらいしかいなかったろうから、大和王朝軍の軍勢の前にはひとたまりもなく敗れた。

大和王朝側の本音としては、半島進出や新羅との戦争などやりたくなかったのではないだろうか。とくに物部は国内派の代表みたいな人物だから、も九州王朝への義理立てなどまっぴらということだったのだろうと思う。

一応大義名分は保たなければならないから、新羅にもちょっと顔は出すが、まじめにやったとは思えない。まもなく橋頭堡の任那は失われ、盟邦の百済は苦境に陥っていく。そして日本は600年初めまでの間、物部氏のもとで内向き政治の時代に入っていく。

なお、百済本紀531年に、「日本の天皇及び太子・皇子、供に崩薨」の記事がある。日本書紀では継体天皇という幽霊みたいな天皇の時代になっているが、その継体とて、一家全滅というような記事はない。これは九州王朝の天皇が死んだと読むべきだろう。