ネット漁りしていたら、次のような文章に出会った。

応神・仁徳不在説/森博達の『日本書紀』音韻分類


『日本書紀』作文製作者は二種類に分けられる
森博達という偉大な学者は『日本書紀』漢文体を厳密に音韻分析した結果を1999年に発表した。『日本書紀の謎を解く』中公新書がそれである。

これによれば、『日本書紀』はあきらかに漢文を知っている渡来人の作風と、あまりよく知らないだろう日本人の作風の二種類に分類できると言う。

『日本書紀』は全30巻ある。
そのうち巻14(雄略紀)~巻21(用命・崇峻天皇紀)プラス巻24(皇極紀)~巻27(天智天皇紀)はあきらかに正しい漢文の書ける人が作者。候補者は中国人の薩弘恪・続守言の二人。


なるほど、そういう角度から資料批判するという手もあった。これなら別に“厳密に音韻分析”しなくても、中国人に見せればすむわけだから、追試・確認してほしいものだ。

これが事実として確認できれば、「一書に曰く」とかの問題も解決の糸口がつかめることになるかもしれない。

大和王朝のフォルクロアに過ぎない古事記を、捏造もまじえて“グローバル化”させたお雇い外国人、その存在を、これからは前提としながら資料批判していかなくてはならないのだろう。

もう一つ、日本書紀に先立つこと200年、倭王武の堂々たる駢儷体の上表文。

「昔より祖禰みずから甲冑をつらぬき、山川を跋渉し寧所にいとまあらず」

と、お雇い外国人に頼る日本書紀作成スタッフの貧弱さが、整合しないのである。やはりこれは九州王朝を想定するしかないのではないか。