三韓の歴史を見る上で百済本記はものさしとして利用できるのではないか。基本的に百済には建国神話はない。だから時間尺を延ばしたり縮めたりする理由はない。必要なのは支配を合理づける「天孫降臨」神話のみである。
第二に、百済政権は満州からやってきて真番の先住民社会の支配権を奪ったいわば"外人政権
"であり、現地住民に対して客観的と想定されるからである。
第三に、山東半島からの渡来人のプライマリーな受け入れ先であり、国際色が強く神話の生まれる余地がないことである。
ただし建国がBC18では、米作りと弥生文化の流入よりはだいぶ遅れてしまう。実際に伝来を担ったのは、その前の真番かさらにその南の馬韓の人々であったろう。

以下に「百済を見よう」のページから引用させていただく。

百済は伝説によれば紀元前18年に建国した。始祖の温祚王は、北夫余から逃れ卒本(中国桓仁)にいた趨牟(朱蒙=高句麗始祖)の子だという。温祚たちは南の肥沃な地へ逃れ、弟の沸流は仁川 で、温祚は河南慰礼城に生活し て国名を「十済」としたという。高句麗と同系と言うことを強調している。

【百済の成長】 実際は国としてまとまったのは4世紀前後といわれる。3世紀半には朝鮮 半島西南部に馬韓が50カ国あったが、百済のおきた金浦平野は帯方郡に近く、その影響を受けて力 を強めたと考えられる。国政には 帯方郡の中国人も関与していたようである。帯方郡の消滅とともに高句麗と 直接対峙するようになった。

近仇首王(375-384)は平壌まで 攻め入り、高句麗故国原王を殺した(371年)。その一方、加倻に 進出し て親交を結ぶとともに、太子の時 代(近肖古王(346-375)のとき)に倭へ七支刀を 送った。それ以外にも大陸の文化を倭国 に積極的に伝えた。千字文などの文字を伝えたとさ れる王仁もこの時 期の人である。
     
【高句麗と百済】
高句麗、新羅が前秦(北朝)と結びついたのに対抗して、百済は東晋(南朝)や倭と結びついた。そのため中国南朝の影響が強く、384年に東晋から仏教が伝 わった。396年には高句麗の広開土王の 侵攻によって打撃を受けた。そのため阿莘王(392-405)は一度高句麗に下ったが、すぐ倭と通じて高句麗と対抗した。新羅が高句麗の勢力 下に 入ったのとは大きく異なる。

阿莘王の死後、日本に質として送られていた腆支が王(405-420)となり、倭との 関係を維持する。高句麗では長寿王の代となり、百済を攻撃した。蓋鹵王(455-475)は殺され、一旦滅亡し た(475年)。 王子文周は熊津へ逃げ て国を再興し た。


下線部分は私が引いたのだが、この伝承様式は米作りの伝承とも重なり合わないだろうか、というのが私の感想である。

結局、縄文人と弥生人の混血というところが、ずっと引っかかったままであるのが、この問題が尾を引いた理由だ。混血は良いとしても、それがmtDNA、Y染色体ともにフィフティー・フィフティーというのは、やはりありえない話だと思う。

朝鮮半島南部で混血した人々が、九州にやってきて、縄文人を排除しながら各地に展開したと見るほうが素直だ。

朝鮮半島に混血種が見られないとすれば、それは彼らが半島から排除されたからなのではないか。(台湾も同様の事例と見られる)