考えてみると、縄文→弥生の変化は狩猟・採集文化から水田耕作文化への移行である。ただ縄文がたんなる狩猟・採集文化であったとは考えにくい。おそらくその中間項として栗と雑穀の栽培を行う粗放農業の時代があり、むしろそれが縄文文化を担う生産様式なのではないか。

三内丸山では栗の栽培が確実となっており、稲をふくむ雑穀が栗の収穫の不安定性をカバーしていたのではないか。それでなければあれだけの人口が定着できるわけはない。だから縄文→弥生の交代は栗畑+焼畑文化から水田稲作文化への交代を伴っていたのではないか。

ということで、まずは栗の生産様式について学ばなければならない。それに格好のページがあったので紹介する。

国産・茨城県岩間の栗を ぜひ食べてください。

縄文海進期

約一万年前に氷河期が終わり、気温が上がるとともに海面も上昇し、日本列島が大陸と分離され、暖流が日本海に入り現在の日本列島が形成された。

このときの温度上昇は 約6500年前まで続き平均気温は現在より約2℃上がった。

ナラ林文化

縄文海進とともに東日本に やコナラなどの落葉樹林帯が拡大した。縄文人は豊かな落葉樹林帯で東日本に文化の花を咲かせた。いっぽう、西日本は照葉樹林帯(シイ・カシ・クスノキ)におおわれ、人はあまり住んでいなかった

三内丸山遺跡

その代表が三内丸山だ。BC3500からBC2000年まで存続した定住型都市型社会だったとされる。遺跡の周辺の森は大半が栗の林だった。三内丸山遺跡は栗とともに栄えた。

栗は栽培されていた

栗が栽培されていたとする根拠は4つある。

①DNA分析でパターンが一致する。これは野生種では見られない。

②山栗が自然に純林を形成することは、通常ありえない。生態学的に見ると栗は弱者なので、人為的に育てられたと考えられる。

③発掘された栗は大粒だが、実生の芝栗から大粒の栗は取れない。品種改良あるいは接木の技術を持っていた可能性がある。

④肥料を与えなければ栗畑を1500年にわたり維持することはできない。

三内丸山だけではない

三内丸山は当時としては想像を絶するほどの大集落である。しかしその頃の縄文人人口は26万人といわれるから、その程度の集落は他にもあった可能性が高い。

下の図は「栗の遺体出土の縄文遺跡分布図」(渡辺 1984)というもので、これを見ると宮城・福島、関東、甲信越にもかなりの集積が見られる。

四万十や吉備地域の飛び地は、これらの地方の独特の地名と考え合わせると、興味ある知見である。