笹野一刀彫が赤旗で紹介されていた。初めて聞く名前である。
記事にちょっと惹かれた。千数百年前からの伝統工芸だというのである。
千数百年前といえば坂ノ上田村麻呂より古い。その頃は沼垂(新潟)以北は毛人の国であったはずだ。それではアイヌの工芸と何か脈絡があるだろうかと気になった。刀のことを「サルキリ・チジレ」というそうで、いかにもアイヌっぽい呼び名だ。

しかし調べてみると、どうも関係はなさそうである。プロトタイプは鷹の一刀彫らしいが、それが発展してさまざまなバリエーションがあるようだ。貧弱な知識で偉そうなことはいえないが、鷹猟は基本的には大和朝廷の文化だろう。それが中世以降は武士にも広がっていった。生業というよりは支配層の文化のひとつと思われる。
ただ鷹探しはけっこうな知識と技能を要する職業のようで、古くは能代あたりの毛人が朝廷に献上したり、鷹探しが北海道に入り、その片割れがシャクシャインの反乱に参加したりしている。そういう意味では鷹の供給地として蝦夷、ないしアイヌは鷹とかかわっていたといえる。

笹野一刀彫にはいろいろ流派や家元があったりして、ただの民芸品とか、農家の手遊びというレベルのものではない。鳴子のこけしと似たところがあって、一種の美術品として評価されているようだ。

なせそうなったかというと、笹野という村は直江兼重(信州上田の出身)という戦国武将の家臣たちが住んでいたところで、農民といっても元はひとかどの武将であった人々の住むところだからである。赤旗の取材した人も6代目・戸田寒風という立派な雅号の持ち主である。米沢にはほかに相良人形というのもあって、これも武士の副業だったようだ。

直江兼重は没後は、あまり地元では評価されなかったようで、家臣達も笹野という村に押し込められた。笹野は現在では米沢と街続きになっているが、当時は米沢盆地の西のヘリの純農村、山裾に笹野観音を祭った寺があって、その門前町だったようだ。なかなか立派な構えのお寺で、お参りする人も多かったろうと思われる。おそらく一刀彫は観音様の参詣のお土産みたいなものだったのではないか。

鷹狩は五代将軍綱吉の時代に公式には禁止されたが、その後も武士の精神の象徴の一つとして鷹が尊ばれたため、一刀彫も鷹をシンボルとするなど独特な発展を遂げたのであろう。

幕末になって上杉鷹山が直江を再評価したという。ことのついでに、旧家臣のすむ笹野の一刀彫を鷹の字にちなんで持ち上げたのだろう。直江はいまでは米沢市民の精神的象徴となっているとのことだ。

ということで、アイヌとの関連はあまりなさそうだが、それなりに勉強にはなった。なにせにわか仕込みで間違いも多々あると思う。お気づきの方はご指導をお願いしたい。

「千数百年」の記載について

「千数百年というと、坂ノ上田村麻呂より古い」と書いたが、笹野民芸館のホームページを見ると

千百余年前、坂ノ上田村麻呂が東征の際、戦勝祈願に開基した千手観音と共に信仰玩具として興ったとされています。

と書いてある。千数百年というのは間違いだ。
しかしこの間違いは赤旗記者の責任ではない。

この民芸館の記載の上には「千数百年」と書いてあるし、記事の見出しにも「千数百年」と書いてある。
民芸館の方がもう少し丁寧に書いてくれれば、こういう間違いはせずに済んだのだが。