或るサンディニスタの生き方

ニカラグア大使、アラーナさんの紹介をさせていただきます。

というより、アラーナさんに事寄せて、ラテンアメリカのこの40年を切り取ってみたいと思います。

1.アラーナさんのチリでの大学生活

アラーナさんは1973年(昭和48年)にチリのサンチアゴ大学経済学部を卒業されています。

ラテンアメリカでは学年末は8月ですから、きわめて微妙な時期に卒業されたことになります。つまり73年の9月11日にチリでは軍事クーデターが起こり、人民連合政権が圧殺されたからです。

無数の若者が街角で、あるいはサッカースタジアムに集められ射殺されました。その後も20年近く軍事独裁が続き、その間に多くの若者が「行方不明」(デサパレシードス)になりました。前の大統領だったバチェレ女史も捕らえられ、拷問を受けた経験を持っています。

その人民連合政府が誕生したのが1970年ですから、アラーナさんの大学生活は完全にその時代と結びついていることになります。サンチアゴ大学はチリ工科大学、コンセプシオン大学と並んで学生運動の中心的存在でした。

また学問の水準においても、当時の経済学部はラテンアメリカの経済学の進歩の牽引車となっていました。それは二つの特徴と結びついていました。

ひとつは、サンチアゴには国連ラテンアメリカ経済委員会(ECLA)の本部が置かれ、経済統計が集約されていたからです。ここではアルゼンチン出身のラウル・プレビッシュを中心に、「輸入代替政策」によるラテンアメリカ経済の離陸が提唱されていました。この方向は、1956年にアルゼンチンのペロン大統領が失脚したことによりいったん頓挫するのですが、1960年に国連が途上国の経済開発の重要性を打ち出したことから、ふたたび盛んになりました。

1962年にキューバを封じ込めるため、ケネディは「進歩のための同盟」を提唱し、ラテンアメリカにアメリカ流の開発政策を押し付けます。そのとき理論的なバックボーンとなっていたのがロストウという経済学者の「離陸」論でした。これに対抗して、ラテンアメリカの経済学者は「従属経済」理論というものを提唱します。これはアメリカ流の経済開発をやっても経済従属が強まるばかりだという批判でした。

「進歩のための同盟」の実験場となったのがチリでしたが、実際には経済はさらに悪化し、貧富の差はさらに拡大し、従属理論派の言う通りになりました。そこで民衆が立ち上がり人民連合政府を成立させたのです。そういう意味ではチリは二つの経済理論のぶつかり合う実践の場だったのです。

もう一つの特徴は、学問が実際の政治闘争と分かちがたく結びついていたことです。先日来札された佐藤さんがサンパウロから亡命してECLAで働いていたことは前に書いたとおりですが、当時軍事独裁を逃れて多くのブラジル人学者がチリにやってきていました。たとえばルーラの前の大統領だったカルドーゾもそうです。従属経済論で有名なドス・サントスもサンチアゴ大学で教鞭をとっていました。

アラーナさんの祖国、ニカラグアも当時はソモサという独裁者が三代30年以上にわたり政権を握り、反対者は保守派といえども容赦なく弾圧されていました。アラーナさんもたんに学問のためにチリに来たのではなく、政治的立場を貫くために祖国を離れざるを得なかった経過もあるのではないかと思います。

同じ頃、ニカラグアからサンチアゴ大学に留学していたもう一人の若者がいました。その名をウィーロックといいます。アイルランド系の移民の家系のようです。彼は「帝国主義と従属」という本を発表した後、ニカラグアに戻りサンディニスタ解放戦線の指導者となります。1979年に革命が成功した後は、農業改革大臣に就任します。84年にニカラグア訪問したとき、私たち訪問団はウィーロックと会見しています。

2.アラーナさんのアメリカでの大学生活

佐藤さんはクーデターの後チリを逃れ、祖国ブラジルに潜入し、そこで半ば非公然の生活を送ることになりました。しかしソモサの支配するニカラグアにそのような余裕はありません。アラーナさんはアメリカに移り住み、ワシントンのアメリカン大学でで研究生活を続けることになります。

アラーナさんは元々経済学を勉強していたのですが、ワシントンに移ってからは国際関係論に専門を移しています。国連かなんかの国際機関のポストを狙っていたのかもしれません。これが後々役に立つことになります。

履歴を見ると、78年で学業を終えています。そして79年にサンディニスタ革命が成功すると、いきなりワシントンの米州機構(OAS)の大使に就任しています。この間の空白はなぞですが、御本人に聞いてみたいと思います。

1978年、国内でのサンディニスタは活動を封じられていました。反ソモサの運動を担っていたのは保守党の指導者チャモロでした。そのチャモロがソモサの息子に暗殺されます。これに抗議する声は瞬く間に国中に広がりました。一時は国中が麻痺するほどになります。しかしソモサは逆に手当たり次第に反対派を粛清していきます。国民が合法活動の道を封じられるなかで、サンディニスタの武装抵抗運動への共感が広がっていきます。

79年の初頭にはサンディニスタの組織が統一を回復し、ついで保守党指導者ともソモサ打倒の目標で一致し、隣国コスタリカで救国臨時政府が結成されました。6月には全国総蜂起が始まり内戦へと移行していきます。そして7月19日、ソモサは国外に脱出し、入れ替わるようにサンディニスタが首都マナグアに凱旋することになります。

これが履歴書の空白期間にニカラグアで起きたことです。アラーナさんがどんなことをしていたかは、おおよそ察しがつこうというものです。だからサンディニスタ政権成立と同時に、「お前ワシントンで外交問題の研究をしていたんだから、そのままワシントンで外交やれよ」ということになったのでしょう。

3.アラーナさんのサンディニスタ政権時代の活動

外交官としての経歴を見て分かるのは、アラーナさんはただの職業外交官ではないということです。それどころか政権の中枢に座り、時々の国運を決するような外交の場に現場トップとして携わってきたということです。

アメリカに駐在する大使のポストは三つあります。一つは駐米大使です。これは外務大臣とほぼ同等のポストです。ほかの二つが国連代表と米州機構大使です。アラーナさんは米州機構大使としてスタートした後、国連代表の代理を務めています。なおアラーナさんの在任中、ニカラグアはラテンアメリカ諸国の強い支持を受け国連安保理の非常任理事国に選出されています。

これは好き好んでやった仕事ではないと思います。83年にはコントラが国境地帯で破壊活動を開始し、これに同調したクルース駐米大使が任を離れるという状況になりました。多くの職業外交官が去っていくなかで、サンディニスタ活動家がいやおうなしにポストを埋めていかなければならない状況が生じました。

83年にアラーナさんは本省に戻り北米局長になります。おそらく最高政策の策定に直接にかかわるためでしょう。当時のニカラグア外務省は解放の神学を奉じるデスコト神父が外相、次官にウーゴ・ティノコがいました。北米局長は実質ナンバー3に相当すると思います。

とにかく83年というのは大変な年でした。春にはコントラ兵5千名が本格的侵攻、首都マナグアから100キロまで迫ります。一方で、この年からコンタドーラ・グループの活動もスタートしました。コンタドーラ・グループというのはメキシコ、パナマ、ベネズエラ、コロンビアの4カ国で、パナマのコンタドーラ島で活動を開始したことからそう呼ばれます。

ニカラグアは最初、コントラなど相手にせず、アメリカとの直接交渉で事態を解決するとの姿勢をとっていましたから、コンタドーラの調停はあまり歓迎しませんでした。しかし自体が容易ならざるものと知った後は、コンタドーラ・グループの調停を積極的に受け入れるようになります。

コンタドーラ・グループの和平案を本線とする、この重大な転換が行われたのは84年9月のことです。私たちが8月にマナグアを訪問したときはまだ、コンタドーラの努力を是とするものの、あくまでもメキシコで続けられていたアメリカとの直接交渉に望みを託していました。

アラーナさんは86年に、本省の北米局長からユーゴスラビア大使に転出します。そしてその職に2年にわたりとどまります。経歴全体から見てきわめて異様なポストです。これはおそらく軍事的な意味が隠されているのだろうと思います。当時、コントラのあいつぐ侵攻に対抗するために急速な軍事力の増強がもとめられました。それは主としてソ連・東欧諸国の支援によって賄われました。そのハブとしての機能を果たしたのがユーゴスラビア大使館だったのだろうと思います。

内戦が激化するにつれ、国を離れる人材も少なくありません。そういうなかで裏活動も安心して任せられる人物といえば、政権内にそう多くはなかったのでしょう。

アラーナさんは88年に、コスタリカ大使に回ります。これが第一次サンディニスタ政権における最後の活動の場となります。アラーナさんの履歴書には、この期間にだけ注釈がつけられています。

私は交渉団の一員としてエスキプラス合意の具体化に取り組んだ。その結果ニカラグア政府と「ニカラグアの抵抗」(コントラ)との和平協定の調印にこぎつけた。

つまり、コスタリカ大使といっても、実際はコスタリカの首都サンホセでの和平交渉を取り仕切ったわけです。

4.アラーナさんのその後の活動

コントラとの和平が成立したものの、その後の総選挙でサンディニスタは敗れ、野に下ることになります。

アラーナさんも外務省を辞し、94年からは一般企業に就職しています。ただこのCOBIRSAという会社、ホームページを見ても何の会社か良く分かりません。サンディニスタとは関係なさそうな会社ですが。

いっぽうで、ふたたび学問を志し、メリーランド大学の外交・安全保障研究センターで、外交・安全保障政策の編制について学んでいます。ちょっと変人かもしれません。国際関係文献の “assiduous reader” と自己紹介しています。浪人のあいだにあっても刻苦勉励、いざ鎌倉に備え、おさ怠りなしといったところでしょうか。

ということで、ラテンアメリカ全体の歴史の流れとサンディニスタ運動の意義を語る上で、これほどふさわしい人はめったにいません。ぜひ御参加をお願いします。