4)米国留学のいきさつ

チュディは小学校、中学校と彼の生まれ故郷で過ごしました。彼はしばしば学校を休んで、サトウキビ刈に行かなければなりませんでした。彼はまた母の家庭菜園を手伝って、出来た野菜を売りに出かけました。母親はその売り上げの一部を彼が受け取ることを許しました。

父は正規の教育の必要を痛感していました。チュディが15歳のとき、首都ジョージタウンの官立中学であるクイーンズ・カレッジに、息子を送ろうと決めました。そこは故郷の村から160キロも離れたところでした。

チュディは三つの家を転々としながら何とか卒業することが出来ました。しかし学校を卒業した後、彼には就職のあてがありませんでした。インド人の青年には、官庁への就職は絶望的でした。

学校の先生になろうと思ったらキリスト教徒になるしかありませんでした。ヒンズー教を信じる両親にはとても受け入れることが出来ない選択です。しかしチュディがそのままプランテーションに戻ることも、とても耐えられないことでした。

ついに彼の父は、チュディをアメリカに行かせることに決めました。そしてワシントンD.C.のハワード大学で歯科医の資格を取るために、チュディは留学することになりました。

チュディはワシントンDCのハワード大学で2年間、歯科医となるための進学コースを送りました。そしてニューヨークでさらに2年間学び、それからシカゴのノースウエスタン大学で、歯科医になるべく最後の5年間を送りました。

チュディは一生懸命勉強して、ハワード大学の2年目には授業料が免除される奨学制度を獲得しました。そして1938年にはノースウェスタン大学歯学部へ進学することが出来ました。

ハワード大学での経験は、チュディを大きく成長させました。南部での公然と認められた人種隔離の現実は、彼の目をアフリカ系アメリカ人の状態に向き合わせました。ニューヨークとシカゴでの生活は社会科学の研究、社会主義者の書物に接する機会を与え、彼の教養の幅を広げました。

両親の仕送りで生活することはとても出来ませんでしたから、チュディはさまざまなアルバイトを経験しました。ボタン・ショップでのつくろい、怪しげな薬のセールスマン、皿洗い、夕刊紙の配達員、洗濯屋のアイロン掛け、エレベーターボーイなどたいていのことはやってのけました。

5) 祝福されない結婚

1942年、チュディはノースウェスタン大学を卒業し口腔外科(DDS)の学位をとりました。そんなことのあいだに、友人のパーティーでジャネット・ローゼンバーグと出会ったのです。それは衝撃的な愛でした(It was love at first sight!)。

その後8ヶ月のあいだ、二人は慈しみあいました。そして二人はシカゴのシティーホールで簡素な結婚式を挙げました。その結婚式にはどちらの両親も同意もせず、祝福もしませんでした。チュディは研修先の歯科ラボで、お手製の金で出来た結婚指輪をこしらえました。

この写真は、1943年8月5日、彼らの結婚式のときの写真です。“プリクラ”でとった一枚25セントの写真ですが、彼らにとってはこれが唯一の結婚記念写真です。

それから2ヶ月経った10月、“ジャガン博士”は故郷に戻りました。そしてその2ヵ月後、もうじきクリスマスというとき、彼の妻ジャネットは、英領ギアナに到着しました。旦那以外の誰もジャネットの来るのを祝福しませんでした。

「彼女は貧しいもの、恵まれないもの、障害を負うもの、抑圧されたもの、社会からのけ者にされ、爪はじきされた者への変わらぬ誠意と愛情を持ち込んだ。そして、政治というものはまず何よりも誠実であるべきだと主張し、譲らなかった。それが私に与えた影響は計り知れない。その結果、いろいろなことが起こったが、私にはひとつも後悔することはない」

「私は彼女とぴったり一緒になって働いた。どんな心配事も相談し決して隠し事などしなかった。彼女は私に心の安らぎを与えてくれた」

6) 歯科医としてのジャガン

ジャガンは首都ジョージタウンでクリニックを開業しました。政治活動にとびこんだ後も歯科医のしごとをやめることはありませんでした。1943-1957までフルタイムの診療を続けていました。その後政務が多忙になっても、昼食時間はパートタイマーとして働き続けました。

ジャネットは看護学生として受けた教育を生かし、優秀な歯科助手となりました。ジャネットはこう言っています。「幸いなことに彼は決してのぼせ上がることはなかった。そして彼が獲得した“名声”に影響されることもなかった」

彼はきわめてせわしない(meticulous)性格で、数秒単位で同じ場所にたっていることは出来ない人で、いつも最も有効な動き方を追求していたということです。

彼は一緒に働く人々にもいつもベストを尽くすことを要求しました。そして患者が貧乏であろうと金持ちであろうと最良の治療を行おうとしました。彼は決して「つり銭を少なく渡す」ような人ではなく、正直そのものの人でした。ほかの歯科医は彼の治療代が安いのに顔をしかめました。しかし彼は、自分には患者から搾取することなど出来ないと分かっていました。

そのころ歯に金冠をかぶせるのが流行でしたが、彼は金冠をかけるために良い歯までいぢる様な治療を拒否しました。

ジャガンは、クリニックの中にとどまることがありませんでした。いろいろな場所に“歯科クリニック”を立ち上げ、すべての治療を無料で行いました。

仲間の一人はこう語っています。「彼らは、これまで英領ギアナでは見たこともない“草の根”型のキャンペーンを行った。彼らは村々に行って人々に語りかけた。それだけではない。彼らは彼らとともに食べ、彼らの小屋に寝泊りし、農園労働者に彼らの献身ぶりを納得いくまで示した」

彼にはもうひとつの責任がありました。彼を育ててくれた家族に対する責任です。米国での勉強から戻ったその日から、彼は弟や妹に系統的な教育を始めました。彼らを外国に送り、歯科、法学、薬学、検眼、看護の勉強を行わせました。

7) 政治活動の開始

故郷の砂糖農場で働く労働者が次々に彼の元を訪れては、さまざまな問題や闘いにおけるアドバイスを求めるようになりました。彼らは、彼らの身内の一人が「ドクター」となり、このような大きな「管制高地」を獲得したことを誇りにしていました。ジャガンもその願いに誠実に応えようとしました。

1946年11月6日、ジャガン夫妻が中心となり「政治委員会」(PAC)が創設されました。ほかの創設メンバーはジョスリン・ハバード、アシュトン・チェイスという労働運動指導者です。ジャガンは米国留学中に科学的社会主義に触れ、すでに確固とした信念をもっていました。

委員会は労働運動とともに行動しました。そして運動の中に新しい進歩的な思想を広げ、地方と外国企業の労働者に連帯を広げ、マルクス・レーニン主義のクラスを開いて哲学を教え、国際主義を鼓舞しました。

同じ年、英領ギアナにおける最初の女性組織「女性のための政治・経済機構」(WPEO)も結成されます。ジャネットが書記長に就任し、ウィナフレッド・ガスキン、フランセス・スタッフォードらが中心となって活動を開始します。

PACは週刊の機関紙を発行し始めました。それはジャガンが米国で買ってきた小さな謄写版印刷機で刷られました。この機関紙は国内の反動派にとってとんでもない怪物(bugbear)となりました。その発行を禁止すべきかどうかが、国の内外で絶えず議論されるようになりました。しかしその議論は、結局のところ機関紙がますます影響力を広げるのに役立っただけでした。

ジャネットはジャーナリストとして習熟し、やがてブレティンの編集者を任されるようになりました。

8) ジャガン、国会議員に

47年12月18日 チュディはデメララ中部選挙区から独立系候補として国会議員(総督府付属の立法審議会)に立候補し当選しました。このときチュディは29歳、最も若い議員でした。そして、議会でただ一人の野党議員としてやがて国中に知られるようになりました。

「私が立法院に初めて議席を獲得したのは45年前のことだった。それは私の人生のうちで最も刺激的で、楽しくて、生産的な期間であった。私は使える報告を片っ端から読んで、全力を注いで議案作成の仕事に集中した。

それから本当の戦いが始まった。私は地主たちと既得利益層を代表するもっとも頑迷な連中と立ち向かわなければならなかった。私の経験は、いつの日か権力を獲得した暁には、論理とか熱情以上のものが必要になるということを教えてくれた。

私は自らに言い聞かせた。私が成功するとすれば道はただひとつ、私に投票してくれた人々の要求を掲げ、彼らとともに行動することだけだと」