チュディ・ジャガンの生涯

 チュディ・ジャガンは、その妻ジャネット・ローゼンバーグ・ジャガンとともに、ガイアナのシンボルともいえる人物です。ジャガンなくしてガイアナの歴史は語れません。と言うよりジャガンの生涯がそのままガイアナの歴史といっても過言ではないでしょう。

ジャガンが97年になくなった後、ガイアナに記念館が出来ました。その記念館のホームページには、豊富な写真とともに彼の生涯がとても詳しく紹介されています。ここでは彼の活動を編年記風に追ってみたいと思います。ガイアナ年表のほうもご参照ください。

チュディジャガンの生い立ち

1)サトウキビ農場に生まれる

チュディ・ジャガンは1918年3月22日、ガイアナの海岸地帯、アンカービルのサトウキビ農場で生まれました。父親は砂糖農場で働く労働者でした。

生まれたところはベルビセ県ポート・ムーランという町の近く、アンカービルという村です。(Ankerville、Port Mourant、Berbice)

ポート・ムーランは首都ジョージタウンから海岸沿いの道路を120キロほど東に行った所です。

ポートといっても、海岸に直接面しているわけではなく、海岸線とハイウエイのちょうど中間あたりに位置しているようです。街道町というわけでもなさそうで、運河の船着場に接して、農場の集荷場や粗糖工場、オフィスなどがあって職員などの住宅や購買所などが集落を形成しているのでしょう。

地図を見ると分かるように、ジョージタウンから第二の都市ニュー・アムステルダム、そしてスリナムとの国境までのあいだの海岸線は運河の網の目が帯状に広がっています。ガイアナはかつては英領ギアナと言いましたが、そもそもこの地域に植民したのはオランダ人でした。彼らはお得意の運河をこの国でも目いっぱい作ったのです。

青々としたサトウキビ畑とそれを取り囲むジャングル、そのあいだを縫うようにしてゆったりとした川の流れ…、絵のような光景が思い浮かびます。

2)インド系ガイアナ人であることの意味

美しい風景とは裏腹に、人々の生活は大変厳しいものでした。サトウキビ農場の仕事というのは刈り入れ時が勝負です。マチェーテと呼ばれるなたのような山刀で、2メートルはあろうかというサトウキビを根元から切って、それを束ねていくのです。これが集荷場に集められ、工場で圧搾されて最終的には黒砂糖の塊となって出荷されます。

この時期(キューバではサフラという)が過ぎれば、仕事は俄然ヒマになります。労働者はお払い箱となって、あとの9ヶ月を自分の才覚で生き延びなければなりません。

昔はこの刈り入れ作業を黒人奴隷が行っていました。しかし英領植民地では19世紀の中ごろ奴隷制度が廃止になり、労働力が不足するようになってきました。自由の身になった黒人たちは、より良い生活を求めてジョージタウンやニューアムステルダムに行ってしまいました。困り果てた農園主たちは、黒人奴隷の代わりにインド人を連れてくることを思い立ちました。

黒人ほどではないにしてもインド人なら暑さに強いだろう、インドも同じくイギリスの植民地だから言葉には不自由しないだろう、と考えたのです。こうして19世紀の後半から大量のインド人労働者がやってくるようになりました。彼らは契約労働制といって、給料の前払いを条件に5年間の“年季奉公”を強いられていました。その代わり農閑期には与えられた居住地の範囲内で“自由に”生活することが出来ました。

年限は限られているものの実際には奴隷と余り変わらない生活ですが、それでも故郷での労働条件よりはまだましだったため、希望者は後を絶ちませんでした。年季奉公を終えた後も少なからぬ人々がガイアナに居残りました。その結果、今ではインド系住民が人口のほぼ半数に達し、最大のエスニシティーを構成するまでにいたりました。

雇うほうは、心中は奴隷を使うのと同じ気分でインド人を雇っていましたが、インド現地の口入れ屋はきっと夢のような景気のいい話で人々をだましていたでしょう。だから当然ガイアナ入りしてから「話が違うじゃないか」という手のクレームは頻発したことと思います。ガイアナの解放闘争が黒人の抵抗運動とは違った組織性と革新性を持っていることには、こういう背景があります。

3)チュディの両親

チュディの父親も母親も、実は「戻り入植者」です。二人は1901年にも5年契約でガイアナに来たことがあり、ベルビセの別々のサトウキビ農場にいました。

二人の両親はともにインドのウッタルプラデシュ州のバスティというところからやってきました。生活は大変厳しいものでした。一家の生活の足しになるため、二人も小さいときから働きました。父は幸運にも3年ほど学校に通うことが出来ましたが、母はまったく学校に行っていません。

二人はウッタルプラデシュに戻り、その後縁あって夫婦となりました。結局インドでうだつがあがらないまま日々を過ごしていた父親は、ふたたびガイアナにわたる決断をします。乗っていたのは当時インドからの移民を運んでいたエルベ号という船でした。

チュディは両親を回想して次のように語っています。

「私の母は、背が低くて、もの静かで、倹約家で、とても信心深い人だった。私の家族の生活が成り立つよういつも懸命だった。彼女は底知れぬ我慢強さで、長い苦しみに耐えてきた。私は母からやりくりの知恵を学んだ」

「いっぽう私の父は、金もないのに気ばっかり大きくて、大胆というか派手好みの性格だった。クリケットと競馬にかけては“偉大な選手”として郡内に知れ渡っていた。賭け事も大好きだった。背が高く色白で、絵のような美男子で、口髭は郡で最も大きいと自慢していた。もし私が指導者としての資質を持っているとするなら、それは父親から受け継いだものだ」