Vmax の思い出

循環器学会の会長講演で懐かしい話しがずいぶん出てきた。VmaxはロスJrの提唱した概念で、その後前負荷や、後負荷の影響を排除し得ないということで棄てられた概念だ。私が卒業したばかりの73年頃に一世を風靡したものだ。このロスがUCデービス、そしてその元になった心筋のCE、SEの概念を提起したのがニューヨークのゾンネンブリック、あと一人誰か有名な人がいたように思う。Emaxの佐川先生や、名前は忘れたがもう一人の日本人の有名な先生は、このグループの流れを引いているはずだ。

なぜ、このような基礎的研究が臨床屋の必須の知識になったかというと、やはりエコーだろう。特に日本では心音図研究会の存在が大きい。東大の坂本先生はもともと心音図の第一人者だったが、心エコーが日本で使われ始めると、いち早くこれに取り組み、とくにエコーを心機能の評価に利用することで,その有用性を飛躍的に高めた。

私が最初にエコーのデモを見たのは74年頃で、MSの患者を連れてきては矩形派のようなM弁を見て、感心したのを覚えている。それまでは「ズットロー」というOS+ランブルの音だけが頼りで、怪しいと思うと、患者を第二内科に連れてゆき、田辺先生に音を聞いてもらったものだ。田辺先生はひそかにあだ名をつけられていて、「ゲロちゃん」というのだ。ゲロというのはドイツ語のゲロイシュ、つまり雑音、英語で言えばマーマーだ。おそらくその声が割りと甲高く、音量も大きいことからつけられたのだろうが、心雑音の専門家でもあった。彼がMSといえばMS、ARといえばARだった。

診察はたっぷり30分はかかったと思う。今にして思えばカロティス(頚動脈派)、ジャギュラー(頚静脈、当時はユグラーといっていた)、アペックス(心尖拍動)などを見たあと、おもむろにステートを取り出し、メンブランとベルで聞き比べ、呼吸変動をしらべ、亜硝酸アミルを嗅がせて…という手立てを踏んでいたのであろう。そんなことは知らない私らにしてみれば、それは一種の神秘的な儀式のように見えたものである。「Ⅲ音というのは聞くもんじゃなくて触れるものなんだよ」と言われたのが、今でも思い出される。

そしてありがたいご託宣をいただいた後、患者さんと二人で菊水の病院まで帰るのである。結構患者さんも満足していたような気がする。しかしたいていは手術もしないまま亡くなっていた。手術死亡率は恐ろしく高かったのである。

「内科」という雑誌に連載された坂本先生の「心音図の臨床」という文献が、当時のバイブルだった。いま思えば、それはTavelの焼き直しだったかもしれない。しかし私たちはそれをコピーのコピーで、それこそ眼光紙背に徹するほどに読み込んだ。

しかしその坂本先生を直に目にする頃、もはや「教祖」に出会ったときのような感激はなかった。私はすでに東京女子医大でCCUを経験し、スワン・ガンツとフォレスター分類を日常の基準としていたからである。当時、血管拡張剤療法が一世を風靡しようとしていた。私が東京女子医大で研修した時期はまさしくその時期に当たる。あの頃は向かうところ敵なしだった。日本でスワンガンツをルーチンとしていたのは東京女子医大しかなかった。日本医大がそれに次いでいた。

天下の坂本先生といえども、スワン・ガンツのデータの前には沈黙するほかなかった。

私が心音図研究会に参加するようになったのはその頃のことである。私が東京女子医大にいる限りは心音図の連中がどう言おうとカテ屋の勝ちである。心音図屋がどう言おうとエコー屋がどう言おうと連中にはPCWPは出せない。心拍出量は出せないのである。

心筋梗塞の患者が入ってきたら、まずはCCUに入れて、フェモラールからスワンガンツを入れ、RAに入ったら造影剤を10cc入れて、ピコピコとPAまで進めたら液を抜いて、紙を流しながらゆるゆるとカテを進めると、ストンと圧が下がって「ハイ、楔入圧です」ということになる。

楔入圧を計ったら、また少し抜いて、カテ先がPAメインになったあたりで、今度は生食を冷やした氷水を注入する。手のひらが真っ赤になるくらい気合を込めてボーラス注入する。1秒か2秒すると、電光掲示板に心拍出量が掲示される。これを記録すると,今度はいろんな薬剤を注射してそのたびに肺動脈拡張期圧と心伯出量を記録するのである。

患者さんの負荷たるや大変なもので、体温も相当下がったであろう。私は心からお勧めする。心筋梗塞になったら、決して大学病院などには行かないことを。