Rodolfo Saldaña はゲバラのボリビアでのたたかいを生き抜いた一人で、ボリビア人である。
彼は1997年4月にハバナで「ミリタント」誌のインタビューに応じている。その要旨が下記のページで読める。
http://www.themilitant.com/2001/6503/650350.html

少し紹介しておこう。

Q: あなたの経歴について話してください。どのようにして政治活動にかかわるようになったのですか。

S: 私の最初の政治的な闘いは、高校に入学したときからです。私は、それからずっと革命勢力の味方でした。

Q: それはどんな年でしたか。

S: 1947年に、私はスクレの高校に入りました。その1年前、Villarroelの政府に対して人民の反乱が起きました。Villarroelは、ラパスの街の街灯に吊るされました。

Q: その政権はどんな性格のものだったのですか。

S: Villarroelは軍人でした。彼は帝国主義のあいだの国際的な矛盾をうまく利用しようとしました。彼の政府は、アルゼンチンやブラジルと密接な関係を持ち、第二次世界大戦ではドイツに共感を抱いていました。同時にアメリカの圧力も受けており、どちらにも偏らないようにしていました。

それは反ファシスト人民戦線の時代でした。最も強い人民からの支持をもつ政党はPIR(革命的左翼党)でした。

私はPIRのメンバーでなかったのですが、デモ行進に参加し、よく投石をしていました。

Q: PIRは、当時ありましたか?

S: PIRはその後共産党にその座を譲っています。PIRの左派は党を去り、あらたに共産党を作ったのです。

1950年に、共産党は主にPIRの若者たちによってつくられました。私は実質的のその創設メンバーでした。その時、私はラパスに住んでいました。私は街頭行動やストライキに参加しました。それらは権力との対決、そして虐殺に終わりました。

1952年に、MNR [革命的民族運動]が権力を握り、鉱山の国有化や土地改革の旗手になりました。それらはもともとPIRのスローガンでした。

1950年代初期にボリビアの学生運動のリーダーとなったサルダーニャは、世界民主主義青年連盟の大会に出席するためにチリに送られた。彼はその後、ブラジルとモスクワへ旅立った。

1950年代半ば、MNR政府は大学の自治を奪い取ろうとした。サルダーニャはそれとたたかう学生運動の先頭で活躍した。

その後、私は共産党の組織委員会のメンバーになりました、そして、何をなすべきか、いかに党を組織するか考え始めました。

我々は、最も重要なことはプロレタリアートの間で党を組織することだと決定しました。しかしプロレタリアートのどんなセクターが重要なのか、この国のどの地域に主要な関心を向けなければいけないのか。

その結果が鉱山での活動だということです。そして当時この国で最も重要な鉱山を見出しました。それはPotosi とPulacayo の二つの山を持ち、6千人の労働者を抱え、この大陸で最大の鉱山だった「20世紀」鉱山会社です。

最初は、我々は通常通りの活動を行いました。指導者が鉱山へ行って、党員やめぼしい活動家たちと会い、細胞を作り、同志たちが結集しました。しかし散会した同志たちは何も行動を起こそうとはしませんでした。「元の木阿弥」です。

今度は三人の同志が三つの山に別れ、およそ1ヵ月そこにとどまって、核になりそうな人々を見つけて、彼らに会って、党を組織することにしました。

しかし、我々はこれでもまだ十分ではないという結論に達しました。党を真に建設するためには、我々3人が鉱山会社に入るしかない。それも現場に入らなければならない。そして私は「20世紀鉱山」の鉱夫となったのです。

私は最初に配属された職場で200人の労働者の大半を党に組織することが出来ました。彼らは細胞を組織して、定例会議を開きました。ゲリラ戦士の一人Rosendo Garci'a Maisman は、そこからリクルートしたのです。

しかし私は重労働ですっかり体を壊してしまい、58年にはラパスに戻って療養することになりました。