ブラジリア西本願寺の佐藤さんが再び来札されたことは、前にも書いた。その後2週間ほど各地を訪問されて、最後の週末を札幌で過ごされることになった。

やはり、我々の興味はチリ・クーデターのときの体験談。「その後どうやって脱出したのですか?」とか、あのときの証言で、分からなかったことを根掘り葉掘り聞いていると、佐藤さんは突然、「あの話には続きがあるんだ」と言い出した。 「死にかけたのはあれ1回ではない」と佐藤さんは語る。

私が死を覚悟したのは、実は3回ありました。 このあいだお話したのは、その1回目のことです。

あれは11日の夜から、12日の未明にかけてのことでした。その後私は家に戻り、脱出の支度に取り掛かりました。ラジオでは、活動家の多くがサッカー・スタジアムに連行されていると放送していました。

その最中に、警察の家宅捜索があったのです。ドアを開けると、制服の警官がずかずかと入って来ました。11日の連中と違い、警察の手入れですから、家中を捜して、怪しいものがないかどうか探すわけです。

警官の一人が二階に上がっていきました。それを見ていた私は、ハッと気がつきました。二階の書斎の本棚の裏には、チェ・ゲバラの写真が隠してあったのです。 もちろん見つかれば、即スタジアム送りで、その先には死が待ち構えています。

体中から汗が噴き出したのを憶えています。「これで終わりだな」と覚悟を決めました。

やがて、警官が二階から降りてきました。彼は上官に向ってこう報告したのです。「とくに異常ありません」
警官は無表情でしたが、緊張しているのがありありと分かります。「あぁ、この人は人民連合の支持者なんだ」と感じ取りました。

 これが2回目に死を覚悟した瞬間です。

その後私は警察署に連行されました。私は11日にやったのと同じように、国連職員であると申告して釈放を訴えました。結局私は署長の直接尋問を受けることになりました。

この人物は、国連職員というのを信用しているようには見えませんでしたが、面倒も好まない様子でした。 「お前は相当厄介なやつみたいだ。いつまで国内に留まるつもりだ。とっとと出て行け」、と言い捨てると、私を釈放しました。

私には妻と二人の子供がいました。クーデターの前から情勢が不穏になっていたので、ブラジルの母親が来て子供たちをアルゼンチンに連れて行きました。残るのは妻と二人だけです。

それに1960年に買ったおんぼろのフォルクスワーゲン。これはブラジルから脱出するときにも乗っていた車です。

翌日、私は出国カードを発行してもらうために役所に出頭しました。身分証を提示して待っていると、係官に呼ばれました。係官はわたしの顔を見ると、手元の書類と照合しました。そして、「出国カードは発行できない」といいました。

私は、「署長に出て行けといわれたんだ。早く発行してくれ」とせっつきました。係官はわたしの顔を見て、「だめだ。お前の名はリストに上がっている」と首を振ると、その書類を見せました。

そのリストは「要注意外国人」の一覧表でした。その上から二番目の欄に私の名がしっかり書き込まれていました。

 やがて兵士がやってきて、私を拘束しました。そして留置場に連れて行こうとしました。

鉄格子の前まで来たとき、なんと目の前をあの署長が歩いてくるではありませんか。私は思わず叫びました。「署長さん、私に出て行けと言ったのを憶えていますね」

署長は私の顔をしばらく眺めていました。そのあと、部下に向って「出国カードを渡せ」と命じました。そして再び私のほうを向いて「とっとと出て行け」と言いました。

 これが3回目に死を覚悟した瞬間です。

 私と妻は、フォルクスワーゲンに積めるだけの物を積んで、サンチアゴを出発しました。あとは車がアンデスを越えられるかどうかです。(ウスパヤタ峠の標高は3千メートル以上です。9月は初春、吹雪けば交通止めになる難所です。至る所に残雪があったでしょう)

14年走り続けたフォルクスワーゲンは健気に峠を越えました。トンネルを抜け、検問所を通過してチリの方向を振り返ったとき、突然ひざが震え始めました。その震えはどんどんひどくなり、立っていられないほどでした。体中が震え始めました。その瞬間のことは今も、切り取ったように鮮やかに憶えています。(殿平さんにいわれて思い出したところ)

峠を越えた私たちは、アルゼンチン領のメンドサという町に着きました。

 当時、アルゼンチンはペロン大統領の時代で、ここに腰を落ち着けることも考えたのですが、アルゼンチンでも情勢は徐々にきな臭くなっていました。一方、ブラジルではガイゼルが大統領になってかなり弾圧が緩和され、おとなしくしている限りは安全らしいという情報が入ってきました。

そこで思い切ってサンパウロに戻ることにしたのです。

 サンパウロで1年余り息を潜めて生活していましたが、それでは暮らしていけません。バイアのサルバドルで役所の非常勤職員の口があるといわれ、そちらに移ることにしました。それが1976年のことです。

それからの話はまた別にあるのですが、一つだけ。

 実はサルバドルでもつかまっているのです。78年に労働者を組織していて摘発されたのです。

このときは本格的に拷問を受けました。まず床の上に跪かされました。つぎに角材を膝の裏におかれ、正座を強要されるのです。

拷問する側にとっては手間もかからず、外傷の後も残らないという近代的な拷問です。これでメンバーの名を吐けということになります。

 今でも膝は痛くて、正座はできません。お坊さんが正座できないんじゃ話しになりませんが、仕方ありません。


例によって、テープもとらず、メモさえしないで、後からの記憶を頼りに書いた文章なので、誤りがあると思います。
おまけに、多少アルコールが入っています。
なお、佐藤さんの話で3回目は警察ではなく軍隊だったといっていますが、やはり警察ではないかと思います。チリの警察は警察軍(カラビネーロス)といって軍の一つなので、上級者は軍服です。
警察軍は4軍の中で唯一、最後までアジェンデに忠誠を誓いました。その後は最も反動的な機構に変わっていきますが、この時点では、末端はかなり親アジェンデ派が残っていた可能性があります。