佐藤清浄さんが提起した「業」についてすこし勉強した。

まずはWikipedia

(ごう)とは、仏教の基本的概念である (カルマ) を意訳したもの。

どうも仏教以前からの概念で、かなり変遷したらしい。それが釈迦の下でいったん体系化され、そのあと世界に広がるにつれ、とくに中国で変形が加えられた。さらに日本に来て民間に流布されるに及んで、日本人独特の心性にあわせて変形・俗化した。

ということで、4つの時系列的類型がある。ここではA)パラ・釈迦も含めたプレ・釈迦、B)釈迦、C)大乗アカデミー、D)俗説的解釈、としておく。


A) 釈迦以前の「業」論

①バラモン教

もともとの教えはこうである

「死後、霊魂は秤にかけられ、善悪の業をはかられる」ということで、実践の集大成が「業」ということになる。

それで実践=個別の業とは何かということになる。これは時代が下ると、こう語られるようになる。

「人は欲よりなる。欲にしたがって意志を形成し、意志の向かうところにしたがって業を実現する」— 『ブリハド・アーラヌヤカ・ウパニシャッド』

人と業のあいだに、欲望と意志という二つの概念を挿入することにより、論理が一気に精緻化する。同時に業が多義化する。

ヘーゲルっぽく言うと、

意志というのは目的と手段を持った欲望だから、欲望の達成の過程で、人は目標の形成力と実現手段の体系を獲得することになる。

業の実現とは、単純な欲望に基づく行動ではなく、①一段と進化した人間的能力=業(わざ)と言うことになる。さらには②到達した業(わざ)を用いての意識的実践ということも視野におかれる。

なんか、解説のほうが難しいですね。要するに、業(ごう)が業(わざ)と業(ぎょう)に分離するんですね。

②六師外道

「業」が何かはさておいて、「死後、霊魂は秤にかけられ、善悪の業をはかられる」というのがそもそも気に食わない、という人も当然いるわけで、

「ある人は、霊魂と肉体とを相即するものと考え、肉体の滅びる事実から、霊魂もまた滅びるとし、…業を否定した」

私から見ればきわめて健全な常識の持ち主だが、釈迦からは「外道」とののしられているようだ。

六師というのは釈迦とおよそ同時代マガダ地方あたりで活躍した6人の思想家たちのことだそうで、これはこれで面白そうだが、とりあえず後回しにする。

ただ、釈迦が敵なし状況の下で沈思黙考したのではなく、かなり多彩な論者と切り結びながら教義を形成したということは、憶えておいてよいことだろう。

B)釈迦の「業」論

バラモン教の「業」論、それをさまざまな形で批判するものとしての、六師外道の所論にたいして、釈迦はどういうスタンスを取り、どう論駁しようとするのか。

「比丘たちよ、意思(cetanā)が業(kamma)である、と私は説く」

釈迦はこう述べ、“何とかウパニシャッド”の欲望→意志→実践→業の実現という図式を変更する。平たく言えば業の主体化だ。目的意識や手段は主体の中に内在化される。逆に欲望は煩悩として外在化される。

本能のままに動く自分は、自分ではないということになる。欲望は煩悩というナマの形では否定され、業として、業を通じて止揚されるのである。よほど思い切った観念論的逆立ちである。

たしかにこれで形而下のわずらわしい論争を回避し、観念的表象の操作に集中できる。しかし何のためにこんなことをするのか、それで何が解決するのか… とりあえずもう少し、釈迦の所説を追ってみよう

釈迦は意志という場合、意志に基づく実践をも意志の概念に含める。意志はそれ自体が過程なのだ。

Wikipedia の筆者によれば、

「仏教では心を造作せしめる働きとして、思考する行為が先に来ると考え、これをまず思業と名づけ、後に起こる身口の所作を思已業名づける。…業は意志・形成作用(行、サンカーラ)とも同一視される」

実践といっても、きわめて観念的なものだ。なぜここまで抽象化するのか、実はこれが六師外道の因果応報否定論に対する反論の基礎となるからだ。
(と言い切るほどの自信はありませんが、ここから先の論理が、道徳論へ飛んでしまうので…)

Wikipedia の記載はここまでだ。

弟子たちが、業の構造を分析しているようだが、Wikipedia の記載は簡潔に過ぎて、理解しがたい。C)、D)はここでは触れられていない。小乗仏教の教義が若干触れられているが、本論からは外れるので省略する。


次は大谷大学の一郷正道さんの解説

http://www.otani.ac.jp/yomu_page/b_yougo/nab3mq0000000qmt.html

仏教の「業」は、

(一)行為をおこす前の意志作用、

(二)身体、言語による行為そのもの、

(三)その行為の残存効果、

という三を内容とし、その順序で展開する。

単に「行為」(梵語カルマン)という語だけでは表現しきれない。

心(意志作用)から業は生じ、その業の結果として私の世界が形成される。

ということで、私がうんうん唸りながらまとめた中身がさらさらとまとめられている。さすがである。

ただすぐそのあと、俗っぽい道徳論にいってしまう。

たしかに釈迦は因果応報論を擁護するために、「業」の概念をモディファイしたのだろうが、業の話を因果応報論にすり替えるのは、釈迦としても本意ではないのではないか.

どうも釈迦の理論はインテリ中間層の発想のような気がしてならない。意志の重視と、個ないし私へのこだわり、実存を過程としてとらえる弁証法的発想は社会的中間層に特有のものである。

これでは到底大衆宗教とはならない。日本で国民の多くを帰依させる過程では相当の卑俗化があったと見てよいだろう。