本日の書評欄で、佐貫浩さんの「聞きのなかの教育」という本が紹介されていた。評者(浅井春夫さん)がこう書いている。

私がとくに共感を覚えたのは、「国民の教育権」の発展の土台には、憲法第25条の生存権保障という国民生活を守る岩盤が存在していることが不可欠の課題という主張である。

我が意を得たりという感じである。
私が「療養権の考察」の中でもっとも力をおいたのも、この点であった。私はさらに、25,26,27条が生存権、教育権、勤労権という三点セットで捉えられるべきだとも書いた。
私は、それは25条を基礎として、展開された社会権の三つの柱だと考えている。
生きることは生活することであり、働くことであり、学び育むことである。
こういう論理立てになったのは、憲法の成立過程とも関係している。元々、このあたりの権利はSocial Welfare という米国の考えが移されたものであり、当初は雑然とした羅列的な条項であった。
これを日本側の草案制定参加者が、「厚生」概念を中だてにしながら、生存権思想のもとに整序し、いまの形に出来上がったものと考えられる。
佐貫さんもせっかく教育権を生存権と結びつけたのだから、国民の働く権利とも結び付けて発展させていただけるとよいと思うが(狭い意味の職業教育ではなく)。

むかし、このことを力説していたら、「働かない権利というのもあっていいんじゃないか」とまぜっかえされた。
一瞬、たじろいだが、後で考えてみると「それもありだな」と思うようになった。
おそらくそれは「私事権」(プライバシー)にもとづくものだと思う。それは、自由権に属するもので、「働かない自由」と言い換えることも出来る。「カラスの勝手でしょ」というやつだ。
親の遺産がたんまりあって、一生食いっぱぐれる恐れのない連中が、趣味や道楽にのめりこんで、それが「世紀の遺産」を作り上げるということも大いにありうる。
ただ「死ぬ自由」とか「自殺の権利」とかになると…
尊厳死協会の会員カードを、お守り札のように、肌身離さず持っている難病患者もいるし…