ゲバラとともに散った日系人

恥ずかしながら、今回初めてエルネスト・フレディ・マイムラ(Ernesto Fredy Maimura)の存在を知った。

ゲバラが死んだ後に、日本でもドッとゲバラ物が出た。その当時はトロとけんかしていた頃で、トロ(といってもノンセク系)が持ち上げるゲバラにはさほど興味はなかった。

その後、ラテンアメリカに足を踏み入れてからは、ゲバラは横を走る存在になった。多少、皆さんと歩調を合わせるくらいにはなってきて、古本屋で当時の本をあさった。

ゲバラフリークから「さすがですね」といわれるくらいの本は集めた。しかしそれらの本の中に前村は登場しない。

しかし前村はすでに1968年から、一部の人には「知る人ぞ知る」存在だった。それが「橿原日記」というブログで分かった。

このブログがそもそも面白い。生まれは皇紀2600年だそうだ。本名が応請矩明(読めるかな?)と書いてあるが、読めない。

とにかくその平成20年12月27日号に「ボリビア国籍の日系ゲリラ隊員エルネスト・フレデイ・マイムラ」という記事がある。

ここでまず、昭和44年(1969)の「サンデー毎日2月2日号」が紹介されている。この雑誌で報道写真家の中川市郎氏の特別レポート「ゲバラとともに散った日系人」が掲載されていたことが分かった。

以下、「橿原日記」さんの記事から

Ernesto Fredy Maimura は日系二世、昭和14年(1939)10月18日、ボリビアのベニ州トリニダ市で、洋服生地店を営む日本人の父、アントニオ・マイムラと妻ローサとの間に二男として生まれた。

外科医を目指していた彼は、昭和37年(1962)にキューバにわたり、ハバナ大学の医学部に進んだ。そしてチェコスロバキアとソ連に2年間留学して医学の勉強をした。

彼はハバナに戻った後、ゲリラ隊員を志望し、66年11月27日、チェ・ゲバラのもとでゲリラ戦線を戦うためにボリビアに戻ってきた。

67年8月31日、ボリビア軍と遭遇して銃撃戦になった。ボリビア軍は10人いたゲリラ戦士のうち8人を射殺し、2人を逮捕した。その一人がフレディだった。

フレディは、尋問に黙秘権を行使して、一言もしゃべらないまま銃殺された。

ハバナ首都圏のマリアナオ地区の小学校は「フレディ・マイムラ小学校」と改名された。キューバの革命詩人ロサリオ・イサベルは「エルネスト・フレディ・マイムラに捧げる歌」という詩を書いている。

というお話

これをハバナで前村の母と出会った中川市郎さんが記事に仕上げたというのが、サンデー毎日掲載にいたる経過のようである。