とりあえず、グーグルで検索して上のほうからの文章に眼を通した。多くはエッセー風であり、それほど中身の濃いものではないが、とりあえず感じはつかめると思う。


「学問・芸術論」 1750年

「学問と芸術の進歩は人間の風俗を堕落させたか、それとも磨き上げたか」

ルソーは「堕落させた」と答えた。

人間は自然状態では自分の能力と欲求が一致していた。文明が進歩すると、自分の力以上の欲望が生まれた。これにより社会的な不平等、悪徳や争いが生まれる。

 

  「人間不平等起源論」 1755年

市村正也さんのページなどから引用)

①「人間とは本質的に善いものであり、堕落しているのは社会のほうである」

「人間の社会を礼讃したければいくらでもするがよい。しかし、実際の社会は利害が入り乱れ、人間が互いを憎み合い、想像しうる限りのあらゆる悪を互いにし合っている」

「人間は自由なものとして生まれた。しかしいたるところで鉄鎖につながれている」

「あらゆる人間の知識のうちで最も有用でありながら、最も進んでいないものは、人間に関する知識であるように思われる」

②自然人のあり方

「(自然人たちは)他人に危害を与えようと考えるよりは、受けるかもしれない危害から身を守ることに注意を払った。」

「自分が受けた乱暴はちょっとした不運とみなされた。乱暴を罰すべき不正とは見なさず、仕返しも考えなかった」

「彼らは虚栄心も尊敬も軽蔑も知らず、君のもの自分のものという観念も持たず、正義の観念もなかった」

「真の自然状態においては、人は自分のことを、自己を見つめるただ一人の観察者と見なしている。そして、宇宙のなかで自分に興味を持つただ一人の存在と見なしている。そして、自分自分の価値を判断できるただ一人の人間と見なしている。
だから、自分の能力の範囲を越えるものと比較することはありえない。だから、その比較によって生まれる感情、すなわち優越感や劣等感が、心の中に芽生えることはあり得ない。同じ理由で、自然人たちは憎悪も復讐の欲望も持つことができないだろう」

③社会が人間のゆがみをもたらす

「人々は知ることもできないものを少しも欲しがりはしない。未開人は自分の知っているものしか欲しが らない」

「(人々の行き来が始まると)人々は様々な事物を比較するようになる。そして無意識のうちに価値と美の観念を獲得し、それが選り好みの感情を生み出す。お互いに会うことによって、人々は会わずにいられなくなる。嫉妬心が愛とともに目覚める。

「人間たちがお互いに相手を評価し始め、尊敬という観念が彼らの精神の中に形成され始めると、誰もがその権利を主張した。侮辱された人間は、そこから起こる被害よりも自分個人に対する軽蔑が我慢ならない。自分に示された軽蔑を、自分で自分を尊敬する程度に応じて罰したので、仕返しは猛烈になり、人間は残忍になった」

「すべてに人間は、真の欲求ではなく他人の上に立ちたいという熱意を持つようになり、その結果お互い危害を加え合う傾向が生まれた」
「富めるものは、支配する快楽を知ると、たちまち他のあらゆる快楽を軽蔑した」

④贅沢と欲求

ルソーは人間が家族を作り、住居を持ち、簡単な道具を使うようになるにつれて欲求がどう変化するかを述べている。

「欲望が自然でなく、差し迫ったものでなくなると、それにつれて情念はますます増加する。いっぽう、それを満足させる力も増加するのである」

「簡素な生活と、限られた欲求とを持った人々が、多くの余暇を持つようになる。そしていろいろな安楽を手に入れるために、その余暇を利用した。 
「自分の肉体と精神とを軟弱にし続けると、これらの安楽は習慣となる。それによって安楽の魅力は失われる。同時にその安楽が真の欲求に変質してしまうから、それを奪われる苦しみは、それを持つことが心地よかっただけにいっそう激しいものとなった」

 

長山雅幸さんによれば、人間の不平等には八つの段階があるとされる。

第一段階: 人間関係が全く欠如している状態。純粋自然状態と呼ぶことができる。そこでは「自然人」は、野獣のような生活をし、その本能が求め る以上の欲求を持たない。

ルソーはこのような孤独な野蛮人を完全に幸福なものとして描いている。なぜならば、彼は独立しており、満たされているからである。

第二段階: 各自がお互いに一時的に関係を結ぶのにとどまる。

第三段階: 人口の増大、幾多の偶然による火や石器、金属器の発明などにより、固定した住居・家族が発生する。すなわち、社会組織の始まりである。

諸個人の交流が一般化し、それを通して競争と優越の観念など、様々な悪徳が生まれる。そして財産の発生によって、人間の平等の危機は本格化する。しかし、これはまだ社会の原初的段階にすぎない。

第四段階: 農業と冶金の技術の発明により、原初的社会状態から更に発達した社会状態へと移行する。分業が生まれ、その中から不平等が発生する。この不平等はその諸形態の中でも最も有害なもの、貧富の差へと帰着する。

「或る土地に囲いをして『これは俺のものだ』と宣言することを思いつき、それをそのまま信じるほどおめでたい人々を見つけた最初の者が、政治社会の真の創始者であった」

第五段階: 終わりなき戦争そして恐怖の時代。富者と貧者とは容赦なく憎しみあう。悪徳は今や普遍的なものとなる。

第六段階: 終わりなき戦争と恐怖から逃れるために「政治社会」が設立される。

第七段階: この政治社会から政府が生まれる。

第八段階: 政府は専制政治へと転化し、個人が無となることによって諸個人間の平等が再建される。これこそが不平等の最終段階であり、「自然状態」への回帰なのである。

 

「社会契約論」 1762年

長山雅幸さんによれば…

人間は自由なものとして生まれたはずなのに、今日の社会では「いたるところで鎖につながれている」、しかも「自分が他人の主人であると思っているような者も、実はその人々以上に奴隷なのである」

こういう疎外状況を、何が正当なものにしているのか、ということである。すなわち政治的権力であり、それを可能にした政治体としての社会契約である。

主権」とは政治についての決定権である。それまでは君主に「主権」があるとされてきた。君主主権の観念は絶対王政を支える強力な根拠となっていた。(王権神授説)

 ロックやモンテスキューは、「主権概念」を、理論的には不必要なものとして、実践的には危険なものとして退けてきた。それに対し、ルソーはこの観念を転用し、人民にこそ主権が存すると言う「人民主権」の概念を打ち立てた。

ただ、「主権」は民衆の意志とは異なる「一般意志」の表現であり、独裁権も排除していなかった。他方において、民主制は神々から成る人民にしか適さない程に「完全な政府」であり、「人間には適しない」とされている。

彼はその証拠としてイギリスの選挙制度をあげる。

「イギリスの人民は自由だと思っているが、それは大間違いだ。彼らが自由なのは、議員を選挙する間だけのことで、議員が選ばれるやいなや、イギリス人は奴隷となり、無に帰してしまう」

(Wikiquoteより)

「自由を放棄することは、人間としての性質を放棄することである」

「単なる欲求への服従は奴隷となることであり、人が自らの命じる規律に従うのは自由となることである」

「社会の秩序は自然から生じたものではない。社会の秩序は慣習の上に基礎付けられている」

 

 「エミール」 1762年

苫野一徳さんの文章などから引用)

①最初のテーゼ: 「すべてのものは、造物主の手から出たときは善であるが、人間の手の中では悪になる」

「自然の秩序においては、人間は皆平等であって身分など関係がない。従って人はまず人間にならなければならない。生きること、活動することが大切なのだ」

自然は決して我々を欺かない。我々自身を欺くのは常に我々である」

「人間の不幸は自分の為し得ること以上に欲望を満たそうとするところに生まれる。不幸は物がないということではない。むしろ物が欲しいと感じるから不幸なのである」

②「人は子ども時代というものを知らない。…いつも子どもを大人に近づけることばかりに夢中になり、大人になるまでの子どもの状態がどのようなものであったかを考えようとはしない」

「私達はいわば二回この世に生まれる。一回目は存在するために、二回目は生きるために」

「知識を与える前に、その道具である諸器官を完成させよ。感覚器官の訓練によって理性を準備せよ」

③「あらゆる情念の源は自己愛である。ここから、自らに近づく人たちへの愛が生まれる。人が人間愛を感じるのは、わたしたちが弱いからだ。だから人といっしょになりたいと思うのだ」

④「エミール」が禁書となった理由は、〈サヴォワ助任司祭の信仰告白〉という部分。

「人間は自由だ。神は、人間が自分で選択して善を行うように、人間を自由なものにしたのだ」という一節で、カントはこれに感激し『実践理性批判』を構想したとされる。

⑤苫野さんによれば、

よく言われる「自然に帰れ」というルソーの言葉とされるスローガン。しかしルソーは、実は「自然に帰れ」とはひと言も言っていない。

これはただちには首肯しがたい。言葉通りには言っていないかもしれないが、それに近いことはけっこう言っていると思う。すこし他の文献を当たってみる。