朝ラジオを聞いていたら、今年はルソーの生誕300年ということ。世界史の授業ではおなじみだが、まじめに勉強したことはない。これからもあまり勉強しようとも思わないが、一応年譜だけは作成しておく。

ねたは主にルソー音楽年譜とウィキペディアによる。


1712年 ルソー、スイスのジュネーヴに生まれる。父イザーク・ルソーは時計職人、母シュザンヌ・ベルナールは出産直後に死亡。 叔母のシュザンヌ・ルソーに育てられた。

25年 父と兄が家を出てしまい、ルソーは牧師や法律家に預けられたのちに彫金工に弟子入りをする

28年3月 奉公先を出奔し、ジュネーヴを離れ、放浪生活を送る。

アヌシーでヴァランス夫人に出会う。トリノの救済院に入り、カトリックに改宗する。

29年6月 アヌシーのヴァランス夫人のもとに帰り、そこで生活することになる。ヴァランス夫人から歌と音楽を習う。

29年10月 アヌシーの大聖堂聖歌隊員養成所の寄宿生となり、楽長ル・メートルに音楽を学ぶ。

30年 ふたたび放浪の旅に出る。

31年 シャンベリに逗留していたヴァランス夫人に再会を果たす。一説では「愛人」となったとされる。このあと10年間はシャンベリにとどまり、音楽家の道を歩む。

1740年 シャンベリを出て、リヨンでマブリ家の家庭教師を務める。

1741年5月 家庭教師の仕事に失敗しシャンベリのヴァランス夫人のもとに戻る。

1742年 パリに出て数字記譜法を売り込むが失敗。このころディドロ、コンディヤックらと親しくなる。

1743年 ヴェネツィア駐在大使モンテギュの秘書としてヴェネツィアに向かう。

1744年 大使モンテギュとたびたび衝突した結果、職を辞して、フランスに帰る。

1745年 リシュリュー公の依頼で、ヴォルテール作詩ラモー作曲のコメディ・バレエ『ナヴァールの王女』の修正を行う。ラモーはこれを不快に感じ圧力をかけたという。

1745年、下宿の女中テレーズ・ルヴァスールを愛人とする。10年間で5人の子供を産ませ、5人とも孤児院に送った。

1749年 ディドロの依頼で、『百科全書』の音楽関係項目を執筆する。

1749年 ディドロ、『盲人書簡』を発表。王制批判の罪で逮捕・投獄される。神の存在を否定するような「過激な唯物論哲学」を展開したため、教会の怒りを買ったといわれる。

1750年 ディジョンアカデミーの懸賞論文に応募。ここで投稿した論文「学問・芸術論」で一等を獲得する。ルソーの「学問・芸術否定論」は各界に反響を呼ぶ。

ルソーは49年夏のある日、ヴァンセンヌ城に幽閉されたディドロに会うために、パリの街から8キロの道を歩いていた。途中、携えていた雑誌「メルキュード・フランス」に眼を通していると、ディジョン・アカデミーの懸賞論文の告知に目が留まった。そして「学問・芸術の進歩は風俗を堕落させたか、それとも深化させたか」という論文テーマに感情がほとばしったという。(土橋貴さんによる)

1751年 ポーランド王が批判。ルソーは、「悪の第一の源は不平等であり、不平等から富が生じた」、そして「富から奢侈と無為とが生まれ、奢侈から美術が生じ、無為から学問が生じた」と反論。

1751年 百科全書の刊行が開始される。1780年までの30年間に全35巻が刊行された。ディドロやダランベールが中心となり,ヴォルテール,モンテスキュー,ルソー(音楽担当)なども加わった。

1753年3月 『村の占い師』がオペラ座で初演され、大成功。

1752年 ルソー、「ボルド氏への最後の回答」を発表。社会の不平等の源が「所有」であると展開される。

1755年6月 初めての大作『人間不平等起源論』が出版される。

1755年9月 ルソーが百科全書の記載でラモーを批判したことから、ラモーが激怒。公開論争になる。

1756年春 パリ郊外のモンモラシに移り住む。危険思想とみなされたためとされる。『政治制度論』の執筆に取り掛かる。

1756年 ヴォルテールの『リスボンの災禍にかんする詩』を批判。絶交状態となる。

ルソーは上昇志向が強く、俗に言う「目立ちたがりや」で他人からの高い評価を求めた人だった。自分の主張を完全に受け入れないと許せないという性格から、しばしば友人とも絶交状態となった。(ルソーの教育論

1761年 書簡体の恋愛小説『新エロイーズ』を発表。ベストセラーとなる。

1762年 『社会契約論』を発表。『政治制度論』からの抜粋・要約として書かれたもの。『政治制度論』そのものは未完に終わる。

1762年5月 教育論『エミール』が刊行される。自然宗教的な内容がパリ大学神学部から断罪され、『エミール』は禁書に指定される。

「エミール」という架空の生徒(金持ちの孤児で、健康な子ども)が、生まれたときから一人前の人間になっていくまでの教育論。このなかの「サヴォア助任司祭の信仰告白」と題する部分が問題にされた。

1762年6月 ルソー自身に対しても逮捕状が出たためスイスに亡命する。

1765年 『コルシカ憲法草案』を著わす。個人の自由のためには平等が必要であると考え、極端な富の不平等を否定し、私有財産に対する批判を強めた。

1766年 ルソー、ロンドンに到着し、大歓迎を受ける。

1770年 亡命先のイギリスで、パトロンだった哲学者ヒュームと不仲になり、偽名でパリに戻る。当局は「過去の人」となったルソーを、高齢を理由に黙認。

亡命中から執筆していた『告白』、「対話」を書き上げる。自己の魂の世界や自然の中での自己の安らぎの世界を描く。

1775年 コメディー・フランセーズで『ピグマリオン』が上演され、熱狂的な大成功をおさめる。

1778年7月 『孤独な散歩者の夢想』を執筆中にエルムノンヴィルにて死去する。


年譜を通じて浮かび上がってくるのは、ルソーというのはフランスの石川啄木だなということだ。

人に取り入るのがうまいというのか、人を虜にする魅力があるというのか、一般教養もそれほどなく、音楽も正規の教育を受けたわけでもない。それなのに、あれよあれよと出世の階段を昇っていく。

それなのに、いつも誰かとぶつかっては喧嘩を始める。面倒を見てくれた人を平気で足蹴にする。子供を産ませては孤児院に放り込むという具合だ。

この人はおそらくそううつ病だと思う。欝のフェイズがはっきりしないが、とにかく1750年から60年までの10年余りを全力疾走で駆け抜けたのではないだろうか。

もうひとつ、この人の「自然人」には「はぐれもの」としての孤独な生い立ちが反映していると思う。人間が類として、群れとして把握されない。しかも自分より上流の人々に対する憧れが、ひそかに投射されている。

だから出来上がった自然人のモデルは、階級社会の現実にはありえないおとぎ話の主人公であり、リアリティーに欠けている。