私が何をやっているかというと、9月16日の記事
「米国従属経済」シリーズの「金融編」が始まる
で以下の問題を自問したが、まだ答えが出せないでいるためだ。


①ユーロ円の由来
②ユーロ円を用いた債券を発行することの意味は? それを外国銀行が扱うことの意味は?
③何の金利が自由化されたのか。市中銀行? 海外金融機関の日本国内での営業?
③円転換とはドル売り円買いのこと?ドル買いについてはとうなった?
④為替先物取引とは? 実需原則とは?
⑤海外銀行の「内国民待遇」とは、銀行経営の完全自由化ということか?
⑥ドル高政策を採れば、円安になるのは当然だ。なぜそれをドル高政策失敗の原因とするのか?
⑦大蔵省はどう抵抗し、どう押し切られたのか?
ものすごい宿題が残された。ここが分からないと次回の記事には進めない。



見えてきたのは、最初は日本の「護送船団方式」に焦点が当てられたことだ。大蔵省・日銀が外貨割り当てを通じて支配し、各銀行が横並びで企業に資金を提供する方式が、日本の輸出をドライブした。その結果が円とドルの不均衡をもたらした、という理屈だ。

そして護送船団方式を支える二つの柱として、為替先物取引の制限と円転換の規制が槍玉に上がった。

ここまでが第一部だ。この規制を取っ払えば、円・ドル間の流通は盛んになり、市場原理がはたらいて、為替レートは落ち着くところに落ち着くだろうと考えられた。

ところが、実際にはうんともすんとも反応がなかった。この二つが円安・ドル高傾向を支えていたとする見方は、結果として間違っていたことになる。

それはつまるところ、ドル高万歳論を唱えていたリーガン財務長官の間違いであった。アメリカにとっての課題は「ドル高とそれに見合う円高」ではなく、「ドル安・円高」を導くことにあったのである。

ここからが第二部である。方針の変更は、第二期レーガン政権の発足とそれに伴う財務長官の交代によって促進された。リーガンに代わったベイカーは、G5による協調介入路線を打ち出した。

それは日本だけでなく世界の主要通貨に対する「ドル安」を容認する政策だった。そして、そういう協調体制の下で日本に円切り上げを迫ったのである。この時点で日本に選択肢はなかった。

つまり、レーガンを“団長”とする使節団=黒船の来航は、プラザ合意とは異なる思想と戦略の下に行われたということである。

ここを一緒くたにした議論は、混乱を生むのではないか。