結局、「対米従属」の連載を読むために、参考書を一編読むことになった。

西田達昭さんの論文を勉強させてもらい、例によって年表風にまとめてみた。ネタ本は宮崎義一「複合不況」(岩波新書92年)という本らしい。

「転換期の日本経済 -プラザ合意・バブル経済・グロ-バリゼ-ション-」

http://www.tuins.ac.jp/library/pdf/jinbun-PDF/09.nishida.11.pdf

 

Ⅰ レ-ガノミックスと金融自由化

1.レ-ガノミックス

1981年1月 レ-ガン政権が発足。軍事力の強化と経済の再建を柱とした「強いアメリカ」の復活をめざす。

経済の再建策は「レ-ガノミックス」と呼ばれる。①所得税を中心とする大幅な減税、②歳出削減、③政府規制の緩和、④金融引締め政策の4本柱を骨格とする。

これらの政策のうち、歳出の削減は実現せず、逆に支出は拡大した。それは財政赤字の急拡大をもたらすことになる。

1982年11月 米国の景気が好調に転じる。以後長期にわたり好況が続く。減税の持つ所得拡大効果が反映したものとされる。この好況は一言で言えば「借金バブル」であった。

同時に行われた金融の強力な引締めが、アメリカの実質金利を大幅に上昇させた。(どうもこの景気拡大政策と禁輸引き締め政策の並行が良く分からない)

この高金利に引き寄せられ、資本が世界中からアメリカに流入し、ドル高が生じた。

1984年末 アメリカは経常収支赤字の急拡大により純債務国へ転落する。

 

2.日本の金融自由化

1983年11月 レ-ガン大統領一行が訪日。日本の金融市場・資本市場の開放を強く迫る。

アメリカ側主張の背景となったのは、「ソロモン報告」といわれる。これはスタンフォ-ド大学のエズラ・ソロモン教授が執筆したことから名づけられたもの。ドル高の原因は、日本の金融市場・資本市場に問題があると指摘する。「郵便ポストが赤いのも、みんなあなたが悪いのよ」の世界だ。
①ドル高は円安のせいだ。②円安は外国資本が流入しにくいからだ。③外資が流入しにくいのは円が投資先としての魅力に乏しいからだ。④魅力に乏しいのは閉鎖的で規制が多すぎるからだ。…という具合で、「風が吹けば桶屋が儲かる」風の強弁である。まともな学者の議論ではない。実態として日本国内にはすでに金余り現象が生じていた。トレンドとしては金は出て行くものであり、入ってくるのものではなかった。

1983年11月11日 竹下大蔵大臣とリ-ガン財務長官が共同記者会見。先物為替取引における「実需原則」の撤廃など8項目の合意内容を発表。

1984年2月、3月、4月 3回にわたって日米円ドル委員会が開かれる。

1984年4月1日 先物為替取引における「実需原則」が撤廃される。

1984年5月末 日米円ドル委員会が「報告」と「金融の自由化および円の国際化についての現状と展望」を発表する。

1984年6月1日 円転換規制が撤廃される。事実上の外資の自由化。外貨資金が自由に円に転換できるようになり、国内資金として使えるようになる。(円転換規制は一部、1980年12月の新外為法によって緩和されていた)

円転換規制: 銀行がドルやユ-ロ円などの外貨を円貨に転換することを制限するもの。これにより外貨を円に転換し資金を調達することが可能になる。ただしコ-ル・手形、国内CDの調達コストに比べ有利でなければ、あまり意味はない。

1984年末 ドルレ-トもドルの長期金利も低下せず、日米金利差は3%程度を持続。実需原則と円転換規制の撤廃を受け、日本企業のいわゆる「財テク」が本格化し、対米証券投資が増大。法人企業の対外証券投資が金融機関による投資を上回る。アメリカの財政赤字をファイナンスする結果となる。(ファイナンス畑の人は書かないのだが、80年代前半は日本が第二次石油ショックに苦しみ、その苦境をアメリカへの“集中豪雨型輸出”で打開し、その結果、日米貿易不均衡が一気に顕在化した期間として記憶しておくべきだろう)

 

Ⅱ 「プラザ合意」から「バブル経済」へ

1.プラザ合意

1985年1月 レ-ガン政権第2期がスタート。楽観主義者ドナルド・リ-ガンに代わりジェ-ムズ・ベ-カ-が財務長官に就任する。ベ-カ-は、これ以上のドル高政策は継続できないと判断。

1985年9月20日 東京外国為替市場の円相場、1ドル=242円まで上昇。

1985年9月22日 G5の大蔵大臣および中央銀行総裁が、ニュ-ヨ-クにあるプラザ・ホテルで会談。

プラザ合意は、一言でいえば、アメリカが日本に対し円高誘導により対日債務を半減させるための“合意の強制”であり、他の三国はただの立会人に過ぎない。ただ、為替レートの変更は債務削減にとどまらなず、日本の対米投資の激増など多面的な影響を及ぼすことになるが、そこまでの思いがあったとは思えない。

1985年9月24日 日銀が協調介入を開始。「ドル売り円買い」のための市場介入をおこなう。円、一気に200円台前半に上昇。

1986年1月29日 澄田日銀総裁、公定歩合を0.5%引き下げ4.5%とすると発表。この時点で1ドル=200円の大台を突破。

1986年3月18日 円相場が1ドル=180円を突破。日銀はニュ-ヨ-ク市場で「ドル買い円売り」介入に踏み切る。4月1日からは東京市場でも介入開始。

円売りと外貨準備の蓄積に伴い、新券が大量発行された。円の余剰資金は政府短期証券の売却(売りオペ=要するに逆向きのインフレ政策)によって吸収される予定であったが、市中には未吸収の過剰流動性が滞留し、「カネ余り現象」を来たした。

1986年末 対ドル円、150円台まで上昇。巨額な外国為替差損が発生する。法人企業部門の対外証券投資は、対前年ほぼ25%減少する。

1987年2月 公定歩合、2.5%まで引き下げられる。ここまで5回の引下げが繰り返される。この後再び生命保険等の機関投資家を中心に対米投資が活発化。前年比75%の増加を示す。

日本の生命保険24社の総資産は、87年3月末で対前年17.4%増の65兆4000億円に達する。このうち40%が有価証券形態での運用、さらに11.47%(7.5兆円)が対外証券投資に当てられる。「ザ・セイホ」の名はウォ-ル・ストリ-トで注目を浴びる存在となる。しかしその後もさらに進行した円高のため、1兆7000億円(投資額のの20%強)という巨額の外貨建て損失を生じた。この損失は株式相場の高騰から得たキャピタル・ゲインで埋め合わされた。

1988年1月 円高が1ドル=121円のピークに達する。

2.バブルの発生 大企業の銀行離れと企業財テク

1987年2月9日 中曽根臨調路線がすすむ。低金利のなかでNTT株が上場。160万円の初値がつき、一時301万円にまではね上がるなど、証券ブ-ムに拍車をかける。

企業は銀行借入金を抑制し、転換社債・ワラント債の発行や増資など有価証券発行を通じて資金を獲得するようになった(エクイティ・ファイナンス)。株式の発行は本来の長期的収益を目指す設備投資ではなく、キャピタル・ゲイン目当ての短期的運用(一種の自己勘定取引)にも用いられるようになった。

1987年4月 東証1部平均株価が2万3216円まで上昇。時価総額は350兆円にまで達する。これは1986年度名目GNPの335兆円に匹敵する規模で、完全にバブル状態。

1987年 全国銀行の貸出残高に対する不動産担保融資の割合が20%台に達する。株式等有価証券担保融資の割合も2.5%まで及ぶ。企業の銀行離れ現象が進み、銀行の貸し出し業務が停滞したための現象とされる。これにより資金を調達した企業は、土地・株式購入や特金・ファントラへの運用をさらに拡大。

1989年5月 公定歩合が引き上げられる。以後1年のあいだに3回引き上げられ、最終的にバブル崩壊の引き金となる。

1990年 株価の崩落が始まる。株式、債権、円がそろって値下がりしたため「トリプル安」と呼ばれる。株価は2年後に最高値の半分に落込む。


結局、実需原則円転換規制 が分かれば良かったのだ。
読んでいて、こんな気もしてきた。
バブルというのは銀行が斜陽産業となっていく過程に咲いたあだ花だったのだ。従来型の通常業務における銀行というのは、バブル崩壊で屋台骨が揺らぎ、ビッグバンでとどめをさされたのだとも考えられる。
生き残りを図る銀行は、自ら自己勘定取引を行うようになり、投機資本そのものと化していく。
これをおかしいと指摘したのがボルカーだ。