梅津和郎さんの「中近東現代史」から抜書き。これにネットからのネタをいくつか追加しました。
2019年9月すこし書き込みました。


1839年 イギリスがアデンを占領。さらに隣接する地方の首長国を保護領とした。北イエメンはオスマン・トルコ領として残される。

1918年 トルコからザイド派が分離。イエメン王国として独立。これは北イエメンに相当。アデンを中心とする南部は英領のまま。
 
1958年3月8日 イエメン王国、アラブ連合共和国(エジプト、 シリア)とアラブ連合を結成
。アハマド王はイギリスから南イエメンを取り戻すことをナセルに支援してもらおうと、アラブ連合に加わった。しかしエジプトの影響で北イエメン国内でも民主改革の要求が高まると、61年にアラブ連合を脱退した。

1962年9月26日 軍事クーデターにより王制が打倒され、イエメン・ アラブ共和国が成立する。王政派はサウジアラビアに亡命し内戦を継続する。


1963年5月 ナセル主義を掲げる「アラブ民族主義者運動」(ANM)の南イエーメン支部、ほかの8団体と連合し「占領下南イエーメン民族解放戦線」(NLF)を結成。NLF書記長にはカタン・アル・シャビが就任。エジプトとのパイプ役を務める。
人民社会党(アル・アスナージェ書記長)など社会主義者はこの運動に加わらず。平和的手段による独立の道を追求する。

10月 民族解放戦線、「革命宣言」を発表し武装闘争に入る。エジプトがこれを支援。奥地の首長勢力はイギリスと同盟し、傭兵部隊をもって解放戦線と対決する。

63年 首都アデンでは、共産主義者の都市ゲリラ「人民民主同盟」(PDU)が反英闘争を展開。NLFとは一線を画す。

1965年6月 民族解放戦線、北イエーメンのタイズで第1回全国大会を開催。エジプトをアラブ民族主義の指導者として賞賛する。また土着ブルジョアジーの進歩的役割を否定し、民族革命を社会主義革命に転換する戦略を打ち出す。「民族憲章」では、職業的軍隊に代え、人民革命軍の創設をうたう。

1966年1月 NLFの一部指導者と人民社会党が連合。「占領下南イエーメン解放戦線」(FLLOSY)を結成する。

10月 エジプト政府、カイロ駐在のNLF書記長カタン・アル・シャビを拘留。現地のNLFはこれに代わる執行部を選出。エジプトおよびANMとの絶縁を宣言する。

1967年11月 NLF、首長勢力との闘争に勝利。イギリス軍は南イエーメンから撤退。NLFは「南イエメン人民共和国」の成立を宣言。カタン・アル・シャビが大統領に就任。

1970年 憲法で「マルクス・レーニン主義に基づく社会主義国家」と規定して、国名をイエメ ン人民民主共和国と改称。南イエメンはソ連の衛星国となり、、アデン港はソ連海軍の拠点と なった。

1970年 北イエメン内戦が終結。スンニ派主導の軍事政権が成立する。

1978年 NLFが他の政党を吸収してイエメン社会党を結成。イスマイルが書記長に就任し一党独裁体制を強化する。

1986年 イスマイル書記長、病気療養のため辞任し、ソ連に渡る。これに代わったナシル書記長は、北イエメンやサウジアラビアとの関係改善を図る。これを不満とするイスマイル書記長が帰国し、内戦となる。1万人の死者と6万人の難民を出す激戦の後、ナシルは北イエメンへ逃亡。イスマイルも「失踪」して、新たに書記長となったベイドが権力を握った。

1990年 南北イエメンは統一し、北のサレハ大統領が統一イエメンの大統領になり、南のイエメン社会党のビード書記長が副大統領になった。

1994年5月 ビード副大統領が南イエメンの再独立を宣言し、南北イエメン内戦となる。まもなく南は敗北し追い込まれる。

なお、ネットでは The Struggle for South Yemen という本が Google Books で抜粋で読めます。

ただし、あまりの大部で手が出ません。興味のある方はどうぞ。