読書ノート「エジプト資本主義論争の構図と背景」

パレスチナ共産党の研究と同じく、アジア経済研究所の「東アラブ社会変容の構図」からの抜書き年表である。

長沢栄治教授が執筆している。

20年 エジプト共産党が創立される。初期の指導部メンバーの多くをユダヤ人が占めた。

共産党員2千人のうち、8~9割は外国人、ユダヤ教徒、マロン派、アルメニア人、ギリシャ人だった。

22年2月 エジプト王国が成立。実体としてはイギリスの植民地統制が続く。

40年 ストライキ全面禁止令が発せられる。弾圧の中でエジプト共産党は解体。

42年 エジプト国内の共産主義グループが、「エジプト民族解放運動」(EMLN)と「イスクラ」に再編される。

EMLNの指導者はクリエル、イスクラはシュワルツ、いずれもエジプト人ユダヤ教徒だった。EMLNは党のエジプト化と大衆化を主張。イスクラ系はこれをショーヴィニズムだと批判したという。

43年 エジプトとソ連が国交を樹立。

46年 「労働者・学生民族主義委員会」が結成される。背景に小ブル・知識人層の急進化があったとされる。カイロ大学出身で、英国留学の経験もあるシャーフィイーが指導。

47年5月 EMLNとイスクラが合併。「民主民族解放運動」(ハディトゥー)を結成。

47年 もう一つの共産主義グループ「新しい夜明」が、エジプト人を中核に結成される。極端な秘密主義をとり、名称を次々に変更。繊維労働者を中心に労働運動に影響力を広げる。

48年5月 第一次中東戦争が始まる。戒厳令が施行され、左翼運動は徹底して弾圧される。これまでのユダヤ教徒指導者クリエルとシュワルツは国外に追放され、ハディトゥーは分裂に追い込まれる。

クリエルはソ連に追随してイスラエル承認に賛成する。これに対しシャーフィイーの率いる「革命ブロック」は、反シオニズムの立場を貫く。

49年 フランス留学生サブリ・アブドラ、ファード・モルシを中心にエジプト共産党(旗派)が結成される。国内指導部の壊滅を受け“国際共産主義運動の指示により”結成したとされる。

50年5月 戒厳令が解除される。ハディトゥ-各派、労働者前衛(新しい夜明の後身)が活動を展開。

50年 ハディトゥーは軍内の自由将校団との接触を図る。軍内共産党員はイスクラ派に属し、イスラエル承認路線を批判。

52年1月 カイロで焼き討ち暴動事件が起こる。全国で反英闘争が激化。

52年7月 自由将校団による軍事クーデター。ナギーブ将軍を大統領に担ぐ。

8月13日 カフル・ダッワール事件が発生。綿工業都市で労働組合のデモ隊と警官が衝突し、死者を出す。軍事政権はナギーブを冠する上からの労働運動を組織。既存の労働運動を弾圧。指導者2人を処刑する。

8月 ハディトゥ-は政権支持を堅持するが、共産党旗派はファシスト、労働者前衛は軍事独裁と規定し、自由将校団政権を公然と非難する。

52年末 軍事政権は米国との接近を図る。ハディトゥーも政権批判を開始。

53年1月 軍事政権、ムスリム同胞団を除いた旧政党を解体、指導部を一斉逮捕。軍内のハディトゥー支部も解散させられる。

11月 ハディトゥーの呼びかけにムスリム同胞団とワフド党左派が応え、民族民主戦線を結成。軍事政権との対決を試みるが失敗に終わる。

11月 分裂していたハディトゥー5組織が統一し統一共産党を結成。クーデター支持を自己批判し、クーデターの背部にアメリカ帝国主義が存在すると非難。

53年 農村部で共産党への弾圧が強化される。各地でナセルの土地改革に抵抗して流血の衝突。

54年2月 ナセル、ナギーブ打倒の動きを見せる。ムスリム同胞団がナギーブ支持の大デモを展開したため挫折。

2月 ナギーブ政権の主導権を握ったムスリム同胞団とナセルとの矛盾が拡大。ナセルは獄中のハディトゥー指導部との交渉を開始する。ハディトゥー幹部は交渉に応じる姿勢を見せる。

4月 ナセルが、同胞団の抵抗を推し切り首相に就任。

10月 ムスリム同胞団によるナセル暗殺未遂事件発生。

11.14 ナセルはナギーヴ大統領を解任。みずから革命指導評議会議長に就任、ムスリム同胞団に大弾圧を加える。

55年4月 ナセル、バンドン会議に出席。この後積極外交を展開。ハディトゥー獄中指導部はこれを全面支持。

5月 地下の統一共産党、獄中指導部を批判。「人民の支持を得ない孤立した軍事独裁政権は、帝国主義の圧力に屈した」と非難する。

8月 イスラエルがガザ駐在のエジプト軍を撃破。英米両国はナセルの軍事援助要請を拒否。

9月 ナセルは社会主義国チェコとの武器取引に踏み切る。ただし国内での共産主義者への弾圧は継続。

56年1月 新憲法が公布される。ナセルが大統領に就任。これに伴い共産主義者の釈放が始まる。

3月 統一共産党、ナセル政権との和解の方向を打ち出す。

4月 統一共産党幹部ムラード、「52年革命は人民民主革命であり、封建的搾取を廃絶した。現段階においては反帝国主義の課題が提起されており、ナセル政権を頂点とする民主民族戦線を形成しなければならない」とする。

7月 アメリカ、アスワン・ハイダム建設への融資を撤回。ナセルは報復措置としてスエズ運河国有化を宣言。

9月 スエズ戦争が始まる。共産党員はパルチザン闘争に積極的に参加。

57年5月 統一共産党、ナセル政権の5年間を総括。「52年7月から53年1月までは人民の運動と米帝国主義の抗争の時代であり、いったん反動が勝利し、ナセルは人民から離反した。しかしその後の情勢変化の中で、ナセルは民族自立の特徴を持つ新たな段階に進んだ」として、ナセルおよび自らを合理化。

7月 統一共産党にエジプト共産党旗派が合流。

57年 労働者前衛、「労働者・農民エジプト共産党」の名称で公然活動を開始。

58年1月 統一共産党に労農共産党も合流。合同会議ではユダヤ教徒が幹部会から排除され、クリエルを中心とするフランス亡命組織も廃止される。のちにクリエルは除名処分を受ける。

58年2月 アラブ統一をめざすアラブ連合か結成される。シリアとエジプトが合同。

アラブ民族主義と共産党: 共産党は当初、「西欧諸国のような資本主義的発展の基盤が欠如していること、そのイデオロギーが“狂信的な宗教的性格”を帯びていること」から警戒していた。のちにナセルべったりになってからは無条件に礼賛。

7月 イラクでカシムを中心とする民族急進派が政権を握る。イラクとシリアの共産党はこれを支持し、ナセルらのアラブ民族主義と対決。

7月 統一共産党から親イラク派が分裂。「党集団」派を結成。「ナセル革命は独占資本の一手段に過ぎない」とし対決姿勢を明らかにする。

12月 ナセル、ポートサイドでイラクと共産主義を激しく非難する演説。

59年1月 ナセル政権、共産党など左翼勢力に大弾圧を加える。多くの活動家が獄中で拷問死を遂げる。

59年3月 モスル事件。

59年9月 獄中の共産党幹部シャーフィイー、ナセルに対し「アラブ民族主義戦線の統一」を訴える書簡を送る。シャーフィイーは翌年6月に拷問により殺害される。

60年 ナセル、社会主義化を推進。銀行国有化。さらに翌年には主要企業が国有化される。

国有化企業の多くは民族的・宗教的マイノリティーの所有するものだったという。社会主義というより民族的、宗教的な過程であった。

61年 第二次農地改革が実施される。党主流派はふたたびナセルへのすりより姿勢。党集団派は国有化は社会主義を意味するものではないと批判。

61年 「国民憲章」にもとづく新たな単一政治組織「民族連合」が発足。

63年 党主流派、アラブ社会主義連合の政治機関である「社会主義者前衛」への参加を決定。ソ連の指示を受けた旧CPE、労農党系のメンバーも加わる。

64年4月 ナセル政権、フルシチョフの訪問をまえに共産党員600名を釈放。

65年3月 エジプト共産党、自主的解党宣言を発表し、ナセル政権与党に合流する。

4月 党集団派も解党声明。解党に反対する残党が、共産主義前衛の名の下に地下活動を継続。

66年6月 ナセル、「封建制の残滓」に対する攻撃を開始すると演説。農村の有力家族支配の復活阻止を訴える。

67年6月 第三次中東戦争。エジプトは惨敗し、軍内にナセルの社会主義路線への批判が強まる。

70年 ナセルが死亡。サダトが後継者となる。

71年5月 サダトによる「修正」革命。「社会主義者前衛」は反サダト派の牙城と目され解体される。このとき元共産党員500~800名が逮捕される。

73年 アラブ社会主義連合への捜索。左派メンバー90名が追放される。

76年11月 「アラブ社会主義連合」による単一政党体制が廃止され、「エジプト型複数主義」が導入される。革命前からの保守勢力「新ワフド党」、社会主義労働党、ムスリム同胞団の活動が容認される。「アラブ社会主義連合」は解体される。連合内主流派は「統一進歩国民連合」の結成に動く。

78年5月 クリエル、パリで暗殺される。

79年 キャンプ・デービッド合意に基づき、イスラエルとの国交が回復される。

81年10月 サダト大統領が暗殺される。ムバラクが後継者となる。非常事態を発令、この非常事態はムバラク追放まで続く。

85年 サミル・アミンが「アラブ社会の危機」を発表。ムバラク体制に取り込まれた国内左派を厳しく批判。内部的社会変革の優先を説く。

87年 総選挙。合法左派政党「統一進歩国民連合」は得票2.2%に激減し議席を失う。これに対しムスリム同胞団は35議席を獲得。政治的影響力を強める。