先日もちょっと触れたが、厚生経済学(Welfare Economics)というのがあって、社会福祉学と盾の両面をなしているのだが、経済学の一分野としての側面もさることながら、「福祉国家論」としてのイデオロギー的体系がかなり前面に出てくる「学問」である。

1920年に英国のピグーという人が提唱したのだが、この流れはケインズらが受け継ぎ、戦後の英国の福祉国家政策のバックボーンを形成していく。いっぽうアメリカでは、ルーズベルト政権の下に結集したニューディーラーたちがケインズの影響を受けながら独自の政策を展開していく。

そういうわけで源流は同じだが毛色の変わった二つのWelfare 概念が出来上がっていくことになる。その毛色の違いは難しい話になるので省略するが、戦後の日本にはアメリカ流のWelfare 概念が奔流のごとく流れ込んだ。それが社会福祉学ということになる。

ところが最近、小泉「構造改革」や国際競争力至上主義に対抗する考えとして、厚生経済学がふたたび見直されるようになっている。ちょっと聞きかじった範囲で言うのもなんだが、ほとんど今の共産党の主張していることと変わらない。

「厚生」というのは生を厚くするという意味で、経済学ということになるから、それ自体が、“生命・生活を大切にする”ことを忘れた現在の経済ステムへの批判を内蔵していることになる。そして人間中心の社会作りに向け、そのの経済的土台を提供することを目指している。

ここまでは同じなのだが、それをどう作り上げていくかという点ではマルクス主義と異なってくる。すごく感覚的な言い方になるのだが、マーシャルの新古典経済学を受け継ぐピグーやケインズは、均衡状態を作り上げることを非常に重視する。変革は一つの均衡モデルからもう一つの均衡モデルへの移行としてとらえられる。だから移行の形態よりも新たな均衡モデルのあり方に目が向きがちである。このため、ともすれば提案競争になりかねない。近経の教科書は「何某の定理」のオンパレードである。

マルクス主義はモデルよりも、変革を実現する勢力をどう形成するかに重きをおくから、将来モデルについては、良く言えば「足をしばらない」というか、融通無碍と言うか、悪く言えば「出たとこ勝負」ということになる。その代わり決死の趣で戦うから迫力はある。竹刀のヤットウと真剣勝負の違いだ。

とはいっても、理屈の上ではけっこう相補的なところがあるので、むやみに敵対する必要はない。むしろ互いに虚心坦懐に学ぶべきだろう。