我が家も職場も北電の計画停電対象地域に入っているようだ。私はどうせブラフだとたかをくくっているが、嫁さんはパニック状態だ。

何せ重度身体障害者だから、電気が止まればいろいろ起きる可能性はある。したがって私としては非常に腹を立てている。人の命を的にしてゲームをしてはいけない。

私としては、計画停電は万策尽きれば断行せざるを得ないと思っている。しかしそれはあまりにも危険な方法であり、かなり最後の手段に近いものと思っている。

したがって、90%以上の確率で計画停電が避けられないという場面では、一時的な原発再稼動もありうると思っている。

市民はまじめに考えているのだ。それなのに会社側には、まじめさが感じられないから怒っているのだ。


2ちゃんを見ると、推進派が書きまくっているが、中身は同じだ。原発反対派は電気使うな反原発厨はクーラー禁止だからな日本全体で経済損失いくらか分かってるのか反原発厨?

これらの「反論」は、もはや周回遅れになっている。「電気使うな!」というのが「原発由来の電気を使うな!」ということなら、すでに原発ゼロになっているからだ。

「原発由来の電気」を使っている人は誰もいない。ただ関電圏内の人は使いたくなくても使わされている。もし断れるものなら断りたいところだ。その分の我慢はしても良い。

もう一つ、こちらのほうが大事なことなのだが、「使うな!」というのが「我慢せよ!」ということなら、それは賛成・反対のいかんを問わず、すべての日本国民が我慢しなくてはいけない ということだ。賛成なら我慢しなくて良いのか?

震災直後の関東の計画停電を住民は受容し、耐え忍んだ。なぜか? それは福島の苦難に寄り添おうとしたからだ。

これは原発賛成とか反対ではない、市民としての矜持の問題だ。一方に原発事故で苦しんでいる人がいるというのに、のうのうとクーラーで自分が楽してよいのか、と誰もが考えた。

原発事故のような大災害を免れた人々は、一種の後ろめたさを抱く。それは、今を生きるすべての日本人にとって共通の感覚だろう。核被害が後代にまで続くものだけに、それは、われわれ「福島世代」の負い目となって残っていく。

原発反対派は電気使うなと書いた人間もわれらが世代である。そういう人間の存在した責任、そういう人間を許した責任も含めて我らが世代は、後世に対して責任を負わなくてはならないのだろう。