独裁政権の終焉

2002年

12月 モイ大統領、総選挙を前に後継大統領候補にケニヤッタの息子ウフル・ケニヤッタを推す。これに反対するKANU活動家はオディンガを中心に大挙離党。自由民主党を再建する。

12月 キバキとケニア国民連合 (NAK)はKANU政権の継続反対を掲げ自由民主党 (LDP)と選挙協定を締結。国民虹の連合(NARK)を結成する。

12月27日 大統領選挙でキバキが当選。初めての政権交代が実現する。議会においても虹の連合は212議席中、125議席を獲得する。キバキ与党の民主党自体は36議席にとどまる。

キバキは自由民主党との合意に際し、オディンガを首相に据え、大統領権限の多くを移譲する密約を交わしていたという。

2003年

1月 キバキが新大統領に就任。これまで認められていなかったケニア土地自由軍の名誉を回復する。いっぽうでオディンガとの密約を破棄し、大統領の専制体制を継続。オディンガは憲法改正に期待し、政権に加わり、道路・公共事業・住宅相に就任する。

ケニヤ土地自由軍の名誉回復は、我々から見れば当然の話で、どうして賞賛されなかったのか、そちらのほうが不思議だ。ウィキペディアによれば、独立時に政権を握ったのは皆、親植民地派の流れをくむケニア人だったため、解放闘争の担い手と承認されなかったそうだ。
元闘士は一貫して冷遇された。植民地政府によるケニア土地自由軍の非合法化も独立後もいっこうに解除されなかった。

2005年

7月 議会で与党提案の憲法改正案が承認される。首相職権限がほとんど認められないなど大統領権限の強い性格のものであったため、自由民主党は反対を表明。オディンガは閣僚を辞任。改正案に反対する運動を呼びかけ、オレンジ民主運動 (ODM) を結成。キバキ政権との対決姿勢を強める。

11月 憲法改正をめぐる国民投票。与党提案の改正案は否決される。オレンジ民主運動は旧政権党のケニア・アフリカ民族同盟 (KANU)と共に反対運動を担う。

「オレンジ」の名称は、国民投票における賛成票のイラストがバナナ、反対票がオレンジで表されたことに由来する。

11月 国民投票後、オレンジ民主運動からKANUが離れ、さらにオディンガのODMとカロンゾ・ムショカのODM_Kenyaに分裂。(ODM_Kenyaはさらに再分裂し影響力を失う)

大統領選挙と内乱

2007年

12月27日 大統領選挙。キバキ大統領が新たに結成した国家統一党(PNU)と、ライラ・オディンガのODMとの一騎打ちとなる。

12.28 出口調査でオディンガの得票が上回っているとの報道。オディンガが勝利宣言を発する。

12月30日 選挙管理委員会がキバキ大統領の勝利を発表。結果発表と同時に大統領の出身部族キクユ人への暴力が始まる。リフトバレー州では教会に逃げた避難民が教会もろとも焼かれ、30人以上の死者を出す。

2008年

1月3日 ナイロビのウフル公園で、ODMと支持者の抗議行動。一部が警官隊と衝突し暴動へと発展。ODM議員の暗殺事件も相次ぐ。

1.05 キバキ、米国務次官との会談後に連立政権を提案。オディンガはあくまで再選挙をもとめる。ナイロビでは暴動が拡大する。

1.08 オディンガ、抗議行動を中止すると宣言。国際的な調停があれば、和解に応じるとの見解を示す。

1.09 ガーナのクフォー大統領がケニヤ入りしキバキ・オディンガと面談。調停案を提示するがキバキが署名を拒絶。

1.16 ODMが抗議行動を再開。警官による鎮圧で2名の死者を出す。

1.22 アナン国連事務総長がナイロビに入り両派との調停活動を開始。

1.25 オンディンガ、アナン調停案の受け入れを拒否。リフトバレー州ナクルではキクユ人に対する暴力や破壊事件が相次ぎ少なくとも64人が死亡。ナイバシャでは逆にキクユ人が避難民19名を殺害。

2.01 アナンの調停により和解が成立。国家調和推進委員会が樹立される。

2.28 キバキとオディンガが、大統領と首相を分け合う連立政権が成立。政治的混乱は収拾される。この間の騒動により少なくとも1000 人が死亡し、国内避難民も一時は30 万人を超えた

4月17日 オディンガが首相に就任。憲法改正に向け作業を開始。

12月 政党法が改正される。それまで160を超えていた政党・政治団体が38に整理される。

2010年8月27日 憲法改正をめぐる国民投票で、賛成票が過半数を超えた。大統領権限の縮小や地方分権、行政のスリム化などが盛り込まれる。

2010年12月 国際刑事裁判所、07年大統領選挙をめぐる暴力事件について、ウフル・ケニヤッタKANU党首、カレンジン族指導者のウィリアム・ルトらが関与していたことを明らかにする。