英政府と連携した独立

1959年12月 非常事態が解除される。再び独立運動が高揚。獄中のケニヤッタの解放を求める。

60年 連邦内独立を認める新憲法が制定される。

61年 初の総選挙が施行される。植民地当局の支持を受けた「ケニア・アフリカ民族同盟」(KANU)が「ケニア・アフリカ民主同盟」(KADU)を破り勝利。

KANUが大部族を中心とする中央集権的国家体制を主張したのに対し、「ケニア・アフリカ民主同盟」(KADU)は少数部族を尊重する連邦制を主張する。…とあるが、五十歩百歩ではなかったろうか?

62年 KANUの要請を受ける形でケニヤッタが9年ぶりに解放される。

1963年12.12 英連邦内で独立。ケニヤッタが初代首相に就任。

1964年 共和制へ移行。ケニア共和国が成立する。初代大統領にケニヤッタが就任。アフリカ社会主義を掲げる。親西側政策を採り、アフリカにおける反共の防波堤として支援を受け、経済成長を遂げる。

66年 オギンガ・オディンガ副大統領(ルオ族)、白人入植者の土地分配政策を巡ってケニヤッタ大統領と対立。ケニヤ人民同盟(KPU)を設立。

反共独裁政権への移行

1969年 政府はKPUの活動を禁止。「事実上の」単一政党国家に移行。オディンガも逮捕される。独立の英雄の一人トム・ムボヤは暗殺される。

1978年8月 ケニヤッタが死去。副大統領ダニエル・アラップ・モイが二代目の大統領となる。その後24年間にわたり独裁政治を続ける。副大統領には政権テクノクラートのトップであるキバキが就任。

アラップ・モイ: 少数民族カレンジン族の出身。反体制派を弾圧し多数を投獄。この間経済は停滞を続けた。自民族を優遇しキクユ族等多数派を冷遇したとも言われる。

1982年6月、ケニアは国会によって一党国家であることを正式に宣言。

1983年9月 一党国家として初の国会選挙。

民主化への胎動

90年 オギンガ・オディンガ、非合法野党として民主主義回復フォーラム(FORD)を結成する(このとき79歳)。

1991年

5月 ケニアの独裁政治に対して西側諸国からの圧力が高まる。モイ大統領は、「植民地主義者は部族でアフリカ人を分断し、いままた舞い戻ってきて今度は複数政党制でアフリカ人をさらに分断しようとしている。複数政党制化を主張する者は、ケニアが混沌と流血に陥ることを望んでいる」と非難。

7月 民主回復フォーラムを中心に民主化を要求する集会・デモが拡大。国際社会に影響を広げる。

11月26日 パリでアフリカ援助国会議が開催される。ケニアの民主化、構造調整計画の遅れを非難、新規援助を停止する。

12月02日 長引く不況と国際社会の圧力を受けたKANU幹部会、憲法の一党条項を無効とし複数政党制の導入を決定。キバキ元副大統領はKANU を離れ、民主党 (DP) を結成する。

1992年

12月 総選挙を目前にして民主主義回復フォーラム(FORD)がケニヤ党とアシリ党に分裂。

12月29日 複数政党制の下での最初の選挙。モイが4選を果たし、その後も実質的なKANUの独裁が続く。二位がアシリ党のケネス・マティバ、キバキが三位、オギンガ・オディンガは4位にとどまる。

アシリ党は、長老政治家オギンガ・オディンガを担ぐことに反発する若手活動家が結成したもの。92年総選挙ではケニヤ党とならぶ31議席を獲得したが、その後路線の動揺と内部争いを繰り返し、凋落する。「アシリ」はスワヒリ語で「元祖」「本家」「オリジナル」の意。

12月 議会選挙でライラ・オディンガがFORDケニヤ党から出馬し、当選する。

オディンガはオギンガ・オディンガの息子でエンジニアであった。東ドイツの大学の出身で、長男の名はフィデル、娘の名はウィニーという、“いかにも”の人。

1996年 FORDケニヤ党が分裂。ライラ・オディンガ派は自由民主党 (LDP)を結成する。

1997年

11月 国会改革、政治的権利が拡大されたことから、政党数が爆発的に増える。キバキが、民主党 (DP) を中心にケニア国民連合 (NAK) を結成、第一野党の地位を確保する。自由民主党(LDP)は第三党の地位を確保。

12月 モイが大統領に再選される。与党KANUは議会で過半数を制することができず、ライラ・オディンガの率いる自由民主党 (LDP) との連立を迫られる。

2001年 ライラ・オディンガ、モイ政権の下でエネルギー相をつとめる。自由民主党 (LDP)は解消され、KANUに吸収される。