ケニア歴史年表 その1

植民地時代以前の経過

紀元前2000年 北アフリカからクシ語系のケニア地域への民族移動。

7、8世紀頃 アラブ人が海岸地域に定住。モンバサやマリンディなど交易の拠点を建設する。

西暦1000年頃 バンツー語系、ナイル語系の民族がケニアの地域に移動。今日のケニア国民を形成する民族として定住。

15世紀初め ケニア沿岸部にバンツーとアラブの言語が混ざったスワヒリ語のスワヒリ文明が栄える。

1418年頃 明の鄭和の艦隊の一部がマリンディにまで到達。

1498 ヴァスコ・ダ・ガマの来訪。

18世紀 アラブ人の影響力が内陸部にまで及び奴隷貿易や象牙貿易などが活発になる。

1828年 オマーン帝国のスルタン・サイードがモンバサを攻略。

植民地時代の経過

1885 ベルリン会議で、欧州列強がアフリカの分割植民地。ケニア沿岸にはイギリスとドイツ帝国が進出。スルタンはザンジバルに根拠地を移す。

1888年 イギリス勢が勢力争いに勝利。イギリス領東アフリカとなる。沿岸部は帝国イギリス東アフリカ会社 (IBEA) が統治する。

1895年 イギリス、東アフリカ保護領を設立。モンバサからキスムまでの鉄道建設が開始される。肥沃な高地が白人移住者たちに開放され、内陸部にまでイギリスの影響が及ぶ。

1902年 現在のケニア全域がイギリスの保護領となる。

1903年 鉄道はキスムを越えウガンダまで延びる。

1920年 英領東アフリカの統治が東アフリカ会社を離れ、英国政府の直轄植民地「英領ケニヤ」となる。

独立運動の開始

1921年 ケニア国内最大の部族であるキクユ族のあいだに、キクユ青年協会が設立される。1924年にはキクユ中央協会(KCA)も結成される。

1942年、キクユ族、エンブ族、メルー族、カンバ族の独立運動家が秘密裏に結束。種族の壁を越えた民族解放運動が始まる。

植民地時代、キクユ族エンブ族メル族は一括してGEMAと呼ばれ、先住民の中でも軍務につけないなど差別された。イギリスお得意の分断政策である。

1946年 ケニア・アフリカ学生同盟(KASU)が設立される。のちにケニア・アフリカ民族同盟(KANU)に発展。ジョモ・ケニヤッタとトム・ムボヤが指導者となる。

キクユ族の出身。ケニヤッタはペンネームで「ケニヤの光」を意味する。本名はウェ・ンゲンギ。建国の父としてムゼー(おじいさん)とも呼ばれる。

1952年10月 キクユ族を中心とする「ケニア土地自由軍」(KLFA)が武装蜂起。白人農場、警察署、政府軍用地、親植民地派のケニア人を襲撃。「マウマウ団の乱」と呼ばれる。

マウマウはイギリス人による蔑称。語源はいろいろあるが定かでない。キクユ族の貧農を中心に一般の都市労働者や労働組合員によって構成され、最盛期には20万人が所属していた。

10月 植民地政府は非常事態を宣言。イギリス軍正規軍5万人、戦車、爆撃機などが投入された。当局は、ナイロビで2万7千人、農村で107万人の反乱支持者を逮捕してマウマウを山林内に封じ込める。

1953年 ケニヤッタはマウマウの乱を指揮したとして起訴され、7年間の重労働を宣告される。実際には北西の辺境地ロドワーに移送され、保護監察下での執行猶予処置がとられた。

54年 黒人、インド人の議会への参加が認められる。

1956年 マウマウ団の闘いは5年に及ぶが、指導者のデダン・キマジの逮捕により最終的に敗北。キマチは絞首刑に処せられる。

反乱による死者は白人入植者95人、親植民地派とみなされたアフリカ人1920人、マウマウ側は、11503人だった。イギリスは植民地予算の4年分に匹敵する戦費支出を余儀なくされた。