高村泰雄さんという北大教育学部の先生が

自己意識と科学的認識の形成過程」という文章を書かれており、そのなかで大田信二さんという方の論文の紹介をされています。

以下はその孫引きです。


へーゲルの自己意識論の出発点は,「我は我である」というトートロジーの克服である。(フィヒテの自我論)

ヘーゲルは運動を欠いた抽象性を「欲望の過程」を組み込むことで克服しようとする。

①欲望の過程は、端初的な自己意識が対象のうちに自己を見いだすことに始まる。

②そして実際にその他者としての自己 を活動的にわがものとすることに続く。

③言い換えれば、対象的仕方で自己を確証することによって,初めて自己を意識しうるに至る過程なのである。

感性的仕方(身体活動)で外なるものとかかわりあうという活動があってはじめて、「我は我である」という自己確誌が,客観的活動との統一のもとで論じうる問題となる。

「与えられた客観が主観的なものとして定立されるのと同様に,主観性は(たんに主観的なものにすぎないという)自己の一面性を自己から疎外し,自己に対して客観的になる」 (エンチュクロペディー)

前半は、身体として与えられた所与が、自我に属するものとして主体化されるということだ。後半は自己の身体をふくめ主体化することで、自我は身体をふくめた自らを一人の“生身の人間”として自覚するということだ。

なお、ヘーゲルの言う主観とは自我(Ego)のことであり、“意欲する自我”と考えたほうがよいであろう。()内は余分な注釈で、かえって分かりにくい。日本語で主観的というと「独りよがり」というニュアンスが強くなるので注意が必要。


感想になるが、

ヘーゲルが自我の過程に欲望の過程を組み込んだとき、すでに「我は我である」から「我は欲するものである」という言い換えがなされていることになる。

「自我」という車体にエンジンが積み込まれて、自動車として動き出すことになるのだが、果たして本当に「欲望」というエンジンが良かったのか、ここのところが定かでない。

①の中身は一読してちんぷんかんぷんである。「端緒的な自己意識」なるものが存在するかどうかさえ分からない。本能的な欲望ならたとえば食欲、性欲など動物にも存在する。

ただ、はっきりしているのは動物の本能的欲望もふくめて、それは具体的で客観的な活動である。意識活動のように内面的で本人にしか分からないような活動ではない。ヘーゲルはこのような活動を「対象的活動」と名づけているのであろう。

“対象の内に自己を見出す”というのも、まことに持って回った言い方である。ヘーゲルは稀代の悪文家というほかない。前後から判断すれば、自己というのは自己の欲望のことである。

というわけで、対象的活動である欲望が起点となることにより、自己意識は具体性を獲得し、抽象性を克販するのである。

②は多少は分かりやすいが、似たようなものである。“他者としての自己というのは、①の“対象の内なる自己”と同じで、対象に投影された自己の欲望ということだろう。

③はまさしく
トートロジーだ。主語が省略されているのは大田信二さんの苦し紛れだろうか。

対象的仕方というのは、普通に言えば“具体的な方法
ということだ。実践であり経験である。つまり経験が自己を対象化するということである。

その結果、実践の主体となった自己に思いが至る。このとき自己は実践した自己の身体と、欲望を抱いた自己意識に分離して理解されるのである。

前後関係からして、この一文の主語は“端緒的な自己意識”だ。そして“初めて自己を意識しうる
”という際の“意識は対象化された自己意識だろう。

それにしても解説者ごとに十人十色である。よく言えばそれだけの内容をふくんでいるからであろうが、悪く言えば「頭おかしいんじゃないの」というくらいの悪文だということだろう。