4.主観(主体)と客観の「直接的」な同一性

哲学的思惟の成立の為には、意識あるいは精神の持つ主観性(主体性)が必要である。しかし主観性(主体性)が無条件にその思惟を成立させるのではない。そこには条件が必要だ。

自然的意識は、対象の真理性のみを確信する意識と、自分の真理性のみを確信する自己意識の葛藤を経て、主観と客観の同一性の概念に達する。これが理性(定理)である。さらに自然的意識は観察や行為を経て、普遍的理性の立場に達し、実体に辿り着く。(この辺がヘーゲルの怪しいところである)

いまや普遍的理性に至った自然的意識は、現実を、観察されたり変革されたりするような疎遠なものとは見なさない。むしろ自分の目的が現実のなかに自分を直接的に表現することにあると自覚している。(このあたりがマルクスに結びついてくるんでしょうね)

しかし意識はまだ、この自己表現が可能であると無邪気に確信しているに過ぎない。意識は現実に関わり、そこに自分の意図が正しく表現されたと主張する。一見したところでは、たしかに主観と客観の同一性の概念が実現されているように見える。

だがたとえば他人の意識もこの現実に関わったとする。そして意図について口を挾むようになると、個人の意識が主張する“現実の同一性”は脅かされることになる。意識は、「この現実が自分個人のものでなく、現実の形成には他者も招かれている」と自覚せざるを得なくなる。

それによって意識はより高い段階に立つことになる。

各人の参与の産物であることが自覚された現実は、各人の自然本性をなす実体である。ここに集団的自然意識が発生する。個々人の自然的意識は、各人が作り上げ各人が拠って立つ、この精神的実体を、自分の自然本性の表現として自覚するようになる。主観性は大きく転換し、精神性・共同性を含んだ主観性が成立する。

しかしまだ自然的意識と精神的実体との隔壁は完全に取り除かれたわけではない。自然的意識と精神的実体との関係が「直接的」である為に、そこには容易に分裂が入り込む。

 

5.人倫的共同体から「法状態」への移行

自然的意識と精神的実体との「直接的」関係にもとづく「人倫的世界」では、意識は精神的実体を自分の自然本性と知る。「確かな信頼」によって人倫的共同体と結び付いている。

しかし意識の主観性によってそこには容易に分裂が入り込み、意識と実体とは切り離されてしまう。この悲惨な無秩序の状態から抜け出る為に、意識は自分の主観性(主体性)を放棄し、他なる実体に譲り渡す。この切り離された状態は「法状態」と呼ばれる。

意識はそこでは行為の規範を欠いたアトム的人格となる。主観性を失った精神的実体が形成する世界は、「教養形成の世界」と呼ばれる。

しかし意識は啓蒙と革命を通じて譲り渡された主観性を再度取りもどし、失われた人倫性を再興しようとする。これが「道徳性の世界」である。

 

6.「良心の立場」

道徳性の世界は、「良心の立場」に於いてその頂点に達する。しかし「良心」が人倫性の再興をもたらすには様々な問題がある。たとえば、良心は「正義」に基づくのであるが、その正義の「確からしさ」は、どれだけ状況を把握しているかに依存する。さらに、良心の内容は個別的な感性に由来するので、普遍性について不確実さが付きまとう。

そこで人は自らの信念を他者に対して表明し、承認を求めようとする。その信念は他の個別性にも普遍的なものにも対立する形で提示される。

しかし他者の意識も、実は自分のうちに良心に関する一定の確信を持っているので、両者は実質的には同じである。

このあとヘーゲルは啓示宗教へと進み、絶対知へと到達するのであるが、基本的にはあほらしい話なので省略。

最終的には、自己意識は実体全体を意識からもぎ取る。そして実体の様々な実在性の構造全体を自分自身のうちに吸収する。そして様々な実在性を自分から生み出す。

以下は樋口先生の解説へと移行する。

ヘーゲル独自の哲学的思惟はどのような性質のものなのだろうか

①さしあたり,諸対象の隠された必然的な結び付きを捉える作業。

②意識と対象との間に前提されていた「精神」の自覚的発動。

哲学的思惟は世界史によって媒介されつつ、精神的財を自己化する自己意識である。

この自己意識は、精神性・共同性を含んでいる。なぜなら、良心にもとづく自覚的な自己放棄を通して絶対知に辿り着いた意識だからである。それは自分の主観性に対するこだわりを自覚的に放棄しているからである。

哲学的思惟は、自分の自己を放棄し内容のロゴスの動きとともに歩みながら、同時に自分を失わず進んでいく。

自己意識の働きを理解すること

ヘーゲルの学的体系は哲学的思惟によって支}られている。その哲学的思惟とは、歴史上の精神的財を記憶・内化し豊かになった自己意識である。ヘーゲルの学的体系は、この自己意識を理解してこそ充分に理解されるのである。

自己意識は対象を自己化して豊かになり、逆に対象のうちに自分を認識し、対象の必然性を取り出してくる。ここにヘーゲル哲学に於ける自己意識の問題性が存しているのである。