人類を主体とすることと、諸個人を主体とすることでは、議論が違ってくる。諸個人(諸階級と言い換えたほうが良い)が人類へと回帰することは、主体放棄にはなるが、新たな主体の獲得でもある。

ということになるのだろうが、何か騙されているような気もする。

とりあえず、ネットにあった下記の論文の摘要を作ってみた。



ヘーゲル哲学に於ける自己意識の問題性

『精神の現象学』を手掛かりにして一

樋口善郎

1.哲学と必然性

哲学は諸対象の持っている必然的な結び付きを示す。

「哲学の内容は、生きた精神の領域そのもののうちで生み出される意識の世界、意識の外的及び内的世界の内容にほかならない」

しかしそれ以前に、諸対象はそれ自身必然的な結び付きを持っていなければならない。

人間の意識内容は「感情や直観や表象」などの形式を取って現われるため、これらの形式によって諸対象の本来持っているはずの必然性が覆い隠されている。

では、この必然性は一体どうやって捉えられるのだろうか。それは「思惟」である。これが「哲学固有の認識方法」である。(思惟は哲学者の仕事だということ)

思惟は「現象界の一見無秩序とも見える素材に向かって」いく。そしてそのなかに「確かな基準及び普遍的なもの」を認識する。さらに必然性や法則を認識する。(近世以降の経験諸科学がこれに該当する)

しかしこれらの一般的な思惟は不十分である。なぜなら一つには、これらの一般的思惟には「自由・精神・神」などの「無限的な対象」が含まれていないからであり、もう一つには経験諸科学の事実が「必然性の形式」を満足していないからである。

これらを満足させるのが「哲学的思惟」である。それは諸対象のなかに埋もれている必然性を捉え、それらの「本来の姿」を照らし出し、「自覚的な理性と現実との調和」を作り出す。(ここでヘーゲルは「現実」を、“存在しているが自覚されない理性”と述べている)


2.精神的財と自然的意識

「いまや世界史の歩みが、これまでの精神的財を内化(erinnern)し、新しい質的飛躍を遂げるような臨界点に立っている」 (精神現象学序論)

ここで言う“内化された精神的財”は、意識の自然本性を規定するものであるが、それは意識にとっての「非有機的自然」である。それは「精神的実体」ではあるが、有機化されていないがゆえに自覚されていない。

自然的意識は経験から始まる。経験とは、「直接的なもの」がその現実性の姿に於いて表現され、「意識の所有物」になるということである。経験された「直接的なもの」は、それまでは意識にとって未経験であったものであり、したがって疎遠な抽象的なものであった。

自然的意識は多くは不完全であり、「もっともらしい理由付け」の域を出ない。それは哲学的思惟以前の表象や経験諸科学的思惟と同質のものである。それは自分自身で作り出したさまざまな表象(理屈)によって自然本性との間に隔壁を立ててしまう。そのことによって自然本性が自分の自然本性であることを自覚できないでいる。

この「理屈をこねたがる思惟」は人間のあいだに根強くある。手を変え品を変え後から後から出てくる。だから意識が「直接的なもの」を自分の自然本性として自覚することは容易ではない。自然的意識は逐一それぞれの表象に足を止め、それぞれを自分の経験に照らして吟味していくことになる。


3.精神と自然的意識(主観)

この自然的意識の過程は個々人の中ではどう展開されているのだろうか。

個々人の自然的意識(主観)は、自分で作り出した表象(理屈)によって、自分自身の自然本性たる精神的実体(身体)を区別してしまうのだが、この作業の結果人間の精神は一方で意識として、他方でその対象たる精神的実体として分裂して存在するようになる。

自然的意識(主観)は、その経験に照らし合わせ、諸表象(理屈)を取り除き、自分の自然本性を精神的実体(身体)のなかに見出そうとする。

それは「精神」が、その実体の一部である主観の力によって、自己の分裂を再統一する過程ともとらえられる。

この再統一は、たんに「エデンの園」に戻ってしまうような再統一ではない。なぜなら、この過程を通じて自然的意識が精神的実体を自分の自然本性として知るからである。


とにかくはまず足慣らし、用語を覚えることから入らないと。

このセクションでは、経済学批判要綱との関連で言えば、

「精神」が、その実体の一部である主観の力によって、自己の分裂を再統一する過程

というあたりがキーワードになってくるだろう。