一日中、マルクスの言葉が気になっていた。
「個別労働は、資本に包摂された具体的有用労働ではなく、直接に価値生み労働と措定されることにより、疎外を免れることになる」という一節である。

おそらくマルクスにも分かっていたわけではなく、ただ「ヘーゲルの論理を突き詰めればこうなるはずだ」という強烈な予感のみがあったのだろうと思うが、この、いわば「主客の再逆転」みたいな論理が、どのような形態をとるのか、150年後の我々にもいまだに分からない。

ただうっすらと分かるのは、主語が逆転するのだろうということだ。諸個人は主体であることをやめる必要があるということだ。

マルクスの説いているのは、「神への合体」に他ならない。人間は神と合体することによって疎外を免れることができる。この場合、主体は神だ。

では労働の疎外という状況を克服する主語は誰なのか。もちろん資本家ではないが、あれこれの政治家でもなく、「生きた労働」の担い手である労働者自らですらない。
それは生産力である。有り余る段階にまで到達した生産能力である。それも現存する生産力ではなく、人類史の過去にまでさかのぼる対象化された労働の総体、「死んだ労働」の総体なのである。

発展する生産力は、一定の段階において資本主義を欲した。しかしそれはさらなる段階においては、資本主義を欲しなくなる。その代わりに諸個人の直接の合体を欲するようになる。

ここにヘーゲル左派出身者としてのマルクスの思いがあるのではないか。
この点はもう少し詰めてみたい。