草稿集②p706

要綱のなかでも、さらに補足・ノートの場所なので、ひどい文章だ。まずは句読点をつけてメリハリをはっきりさせる。

生産諸力が発展すると、労働のための諸条件が生きた労働と比べて増大しなければならない。ここで言う労働条件とは原料や設備などのことである。すなわち過去の労働の生産物(対象化された労働)である。
これは厳密に言えば同義反復である。
なぜなら、ある労働の生産性が向上するというのは、ひとつの生産物に加えられる直接的労働の量が減少するということだからである。
逆に言えば、社会的活動の結果として作られた生産物が、もう一方の社会的活動である「生きた労働」の身体をさらに強化するからである。ヘーゲル風に言えば、対象化された過去の労働が、現在の主体的な労働に合体していくからである。

しかし資本の立場からはそうは見ない。
資本の立場からは、労働は賃労働である。
その賃労働に対して、施設・設備が巨大化し、原料が大量化することは、生産過程において「生きた労働」に頼る部分がますます小さくなっていくということである。労働者に「働いてもらう」立場から、労働者を「あごで使う」立場に移行するのだ。
それらの労働条件は「生きた労働」から自立し、「疎遠かつ圧倒的な力」となって労働に立ち向かうようになる。

ここで大事なのは、「生きた労働」に対置されたこの膨大な力が、労働者にではなく資本に属しているということである。だからそこには「転倒」が生じる。「生きた労働」の過程は、他人への譲渡の過程である。資本の立場から見れば、それは他人の労働の取得である。

ここから、疎外の止揚に向けた「信仰告白」へと移行する。

しかしこの「転倒」は、必然性はあるが、人類史の一こまに過ぎない。ある一定の生産力の発展段階にとっての必然性に過ぎない。それは決して生産の絶対的必然性ではなく、ある種の過渡的段階の持つ必然性である。
絶対的な必然性は、この過程の土台や形態がいずれ止揚されるということである。

ブルジョア経済学者たちは、社会の生産力が施設や設備などの形で固定化されていくことの必然性を強調する。それは正しい。しかしその必然性が、これらの生産力が「生きた労働」から疎外される必然性と切り離すことができないと考える。それは誤りだ。

このあと、論理が突然飛躍する。

「生きた労働」は個別に見れば、直接的・具体的な労働である。しかし(資本主義の次に来る社会では)労働の持つ、このような直接的な性格は止揚される。諸個人の活動は直接的に一般化され、社会的な活動として措定される。(思いが先走って何を言っているのか分からない。今日はもう仕事止めて、飲みに行ったほうがいいでしょう)

ところが、ここからがマルクスの粘着質。さらに十行ほど訳の分からないせりふが続く。
分からないながらに、気になる文章。

生産の対象的諸契機は所有物として、有機的な社会的身体として措定されるのであって、諸個人はこの社会的身体の中で社会的諸個体として再生産される。

ということなので、諸個人が生産設備やその他の社会的富を取り返すのではなく、諸個人が「有機的な社会的身体」に自らを併合することによって疎外は解消されるということになる。

ありていに言えば、これは「出家」と同じではないか? これはヘーゲル左派シュトラウスも真っ青の主観的観念論ではないか?