「女性の目・アラカルト」というコラムが国際面に連載されている。
今回はエジプトから湯浅さんというかたが寄稿しているが、これが面白い。

中東では現地人と仲良くなるためにはお茶を飲めとよく言われている。
しかしお茶以上にエジプト人と仲良くなる方法を見つけた。それは一緒に昼寝をすること。
ただたんに同じ部屋で昼寝をしただけなのに、眼が覚めたとき、同じ空間で同じ時間を共有したというつながりが生まれます。

ここまでは、「うん、ありだな」という程度、学生時代の「合宿」なんて、そんな感じだ。しかし湯浅さんはそこからさらに話を進める。

寝るという行為はもしかしたら、集団行動なのかもしれません。だから一つ屋根の下で生活している家族には絆があるのかもしれません。

この指摘はグレイトな内容をふくんでいると思う。人類史や社会形成史の根幹にも迫っている感じがする。


寝るというのは無防備になるということだ。それを集団化することで乗り切ってきたのではないか。それが土地への定着化と家屋の分離により、「家」が生まれ、「家」単位への人々の分離と、「家」が密集することによる共同体への結合が進んでいった。(大都会への集中は資本の論理によるものであり、アノミー化であり、液状化である。共同体の論理によるものではない。だから安全の質は逆に低下してしまうし、夜もおちおち眠れなくなる)

その駆動力となったのが、眠る→寝るという行為であったのかもしれない。(人は無防備になるときに正反対の二つの行動をとる。たとえば排泄とかセックスとかは隠れるようにひっそりと行われるのが通例だ。入浴は日本では銭湯や温泉など例外的に開放的ではあるが…)

これまでは生産活動が人類の集団化を形成する規範と見られてきた。エンゲルスの「家族・私有財産」はその典型だ。しかしホモ・サピエンスが家族や共同体へと編成されていく過程は、生産活動からだけでは説明しきれないものをふくんでいる。(“労働”の度外れの強調はエンゲルスの一貫した傾向である)

40年近くなるが、子供が生まれた頃、「遊ぶ」ことの意義を考えてみたことがある。「遊ぶ」といえば、ホイジンガーの「ホモ・ルーデンス」が有名だが、実はマルクスも「余暇活動」にこそ人間の本質があると考えていた。

マルクスが社会主義社会のキーワードとして、「結合した労働」と「アソシエーション」を挙げているのも、この延長線上にとらえることが出来るだろう。

ただ、労働といい遊びといい、いずれも活動であり実践である。そこへいくと「寝る」とか「眠る」というのは、非活動そのものである。(生理学上は「睡眠行動」という用語もあるが…)

寝るという行動は、たとえば「三年寝た郎」とか「はぐれ雲」のように、“なにもしない”ことと思われてきた。しかし“なにもしない”至福の時間を確保するためには、人間はさまざまな“寝るための集団行動”を積み重ねなければならないのだ。

ある意味で人間の生活にとって“なにもしない”ことの大切さを、この文章は浮かび上がらせてくれたと思う。