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果実をもたらすものとしての資本 流通過程における資本の姿態

資本は、生産と流通との統一として措定されている。
資本は、(生産という観点からは)自己を永遠に再生産し続ける価値であるが、(流通という観点からは)価値を生む価値としても措定されている。

流通過程における交換の運動は、資本自らの運動がもたらすものである。それは生産物の商品化という形をとる。そのなかで資本は新たな価値を生み出す。
女性は母親になるべく根拠を当てられた性である。女性は子供に対して母親として振舞う。それと同じように資本は価値を生産するものとして根拠付けられた価値である。資本は剰余価値に対して自らが生み出した価値として相対する。

農業だと収穫は年に一度なので、生産過程と剰余価値の関係はすっきりしているが、工業では生産過程の間隔は千差万別であり、その間に絶えず流通過程が挿入されてくるため、剰余価値の姿は見えにくくなっている。剰余価値をふくむ資本の姿態は、流通過程では異なっているからである。

剰余価値はもはや、資本が生きた労働に対して単純に直接的に関わることによって生み出されたものとしては現れない

のである。

資本はあらたに生産された価値を剰余価値によって測るのではなく、自己自身によって測る。今日の自己自身から昨日の自己自身を差し引いたものは利潤として表わされることになる。

「永遠の時相」ではなく、「資本の時相」のもとでのみ、剰余価値は利潤なのである。女性が嫁となり母となるように、資本は価値の源となり、子供がその息子となるように剰余価値は利潤となるのである。