パラグアイにおける国会の力は非常に強い。
これは13年前に起きた弾劾事件の影響がある。
これについては以前文章に起こしたので、興味のある方は参照されたい。

パラグアイの政変劇

パラグアイは89年まで独裁政権だった。ストロエスネルという軍人が54年にクーデターを起こして、そのまま権力の座に座り続けたのだった。
パラグアイは中南米で一番最後まで残った独裁政権であり、50年の長きにわたる中南米最長の独裁政権だった。ドイツ系移民の子孫だったストロエスネルは、元ナチ幹部ヨゼフ・メンゲレ医師をかくまったことでも有名だ。
政権末期にはアメリカにすら見放され、外国援助の75%が日本からのものだった。

あまりにも時代錯誤の独裁政権は、一族の身内の軍人のクーデターによって倒された。アメリカの差し金だったことは公然の秘密だ。
その後、軍事政権が数年にわたり暫定統治を勤めた後、形の上では一応「民主化」された。しかし独裁政権の担当者や軍は一切処罰されず、真相は一切問われず、権力機構はそのまま維持された。
なによりも、独裁政権の基盤となった大土地所有と、極端な貧富の差はそのまま温存された。

このパラグアイという国は、16世紀にスペイン人が侵入し、先住民グアラニ族を使役しながら農業・牧畜などを形成した歴史を持つ。金も銀も出ないただの平原だから、入植者は多くなく、9割のメスティソ・先住民の社会のうえに支配者の小さな社会が乗っかるという植民地時代の遺制がそのまま残っている。

92年の国勢調査では人口411万人の49%がグアラニ語を日常言語として生活していた。いっぽう土地を追われた先住民はカニリタと呼ばれ、およそ100万人が首都アスンシオンの川縁に掘っ立て小屋を建てて暮らしている。


独裁政権の復活を試みる動きは何度も繰り返された。その中で最も緊迫したのが96年6月のオビエド陸軍総司令官のクーデターだった。これは周辺諸国の強力な反対により失敗に終わったが、その後の大統領選挙で、オビエドの身代わり候補のクバスという人物が当選してしまった。

クバスは就任後ただちにオビエドに恩赦を与え、その後もオビエド復権を狙い着々と手を打った。パラグアイの「民主主義」は風前の灯火となった。

そのとき最高裁判所が、軍事法廷によるクバス無罪の判決を無効と裁断した。続いて議会が裁判所の判断を正当と認め、反クバスで行動をともにした。議会は軍の脅迫にもかかわらず節を貫き、最終的にはクバスを弾劾に追い込んだ。(正確には弾劾成立直前に辞任)

若干の混乱の後、議会多数派のコロラド党反クバス派のニカノル・ドゥアルテが大統領に選出された。彼は高らかに「民主主義」をうたい、軍事独裁の復活を狙う勢力はいったんは後景に退いたのである。

ドゥアルテの就任演説は素敵だった。
人間の尊厳を否定し抑制するネオリベラリズムは弱体化する。人間は市場よりも尊いことを踏まえ、市場をより公正なものにしなければならない.人道に適した開発の道を探す。

たしかにこれは民主主義の偉大な勝利であった。しかしその民主主義は少数の支配層内部の民主主義でしかなかった。先住民や・メスティソに開かれた民主主義ではなかったのである。一人あたり年収は940ドル、国民の2/3が貧困ライン以下だった。

さらにパラグアイが累積債務を片付けるためには、IMFとアメリカの主張を飲み込むほかなかった。ドゥアルテは当初米軍との合同演習に反対していたが、それを貫くことは出来なかった。結局、彼がしっかり実行したのは蓄財のみであった。

10数年前にはパラグアイの議会は軍事独裁に対する民主主義擁護の拠点であった。しかしいまやそれは、真の民主主義の実現を願う多くのパラグアイ国民にとって、反民主主義の拠点と化したのである。これが歴史の弁証法だ。